新サーバー”ニューマーケットオープン”


 
1/13〜1/20まで行っておりました「正式サービス開始1周年」イベントですが、
第3弾の思い入れ名馬再現での当選者が決定いたしました!
ポジー ロンシャン
友達がたまたま懸賞で北沢騎手のサインをもらい、友達と北沢騎手のファンになった。当時の北沢騎手のお手馬がポジーであった。4歳時は勝てる条件戦で、岡部騎手に乗り代わりることが多かった・・・
しかし、5歳時、北沢騎手で連勝、無事OP入り、そして迎えた秋の天皇賞。周囲はナリタブライアンの戦線復帰で盛り上がっていた。レース中、自分もナリタブライアンばかりに目がいき、光を放ったポジーの末脚を見逃してしまっていた
反省し、次走の愛知杯熱視線を送った。結果、1番人気で敗退・・翌年は不振が続く。調子を取り戻しつつあり、期待した夏の漁火Sは加藤騎手に乗り代わり・・・もう引退だろうと思っていた。ポジーを忘れかけてた頃、平安Sに出走していることを知った。道中は後方。しかし直線、先頭を猛追、4着。これが一番好きなレースだ。次走はフェブラリーSとなった。しかし、賞金順で17番目。1頭回避しないと出られない。願った。出走を心から願った。そして・・・金曜の夕方、確定出走表を夕刊で確認した。
ポジーの名前は、なかった。
サンエイサンキュー ロンシャン
生涯成績17戦5勝2着5回 獲得重賞 阪神3歳牝馬(G1)2着、オークス(G1)2着クイーンステークス(G3)、札幌記念(G3)、サファイアステークス(G3)
以上のように成績自体はたいしたことはないと思いますが、阪神3歳牝馬では怪我を負いながら2着に入り、根性娘ともいわれました。小さな馬体(420−438kg)でがんばっておりました。桜花賞では2番人気になりながら7着と惨敗、オークスでは田原騎手とかわりもう少しでG1タイトルがというところで2着。このあとからこの馬に対して運命の歯車が狂いはじめたかもしれません。
通常、夏場は休養にはいるのですが、この馬は走りつづけます。札幌記念では古馬の牡馬を倒す見事な勝利です。ここでも休養にはいることなく走り続けてしまい。エリザベス女王杯直前で騎手とオーナーサイドや厩舎や新聞関係者といざこざがおこり、残念ながら4回目のG1チャレンジでも5着。ここで完全に騎手が休養をすすめますが次のレースに挑むことになり田原騎手は降りました。
放牧にだされることなく1年以上走り続けがんばっていました。最後のレースは有馬記念、最終コーナーで骨折、競争中止普通なら予\後不良になるところ、オーナーの希望で延命されますが5度の手術にも耐え元気になり、繁殖牝馬になれるようまがった足の治療に入りましたが手術終了五日後になくなってしまいました。
子供を楽しみにしていただけに残念でした。ゲームの中だけでもぜひとも彼女や子供の活躍が見てみたいです。番外、自分の記憶が確かなら馬連導入した際の最初の万馬券はこの馬が立役者だったと思います。函館2歳ステークス(G3)12番人気で2着、17,100円の払い戻しです。
ライスシャワー アスコット
私にとって「永遠の一頭」と呼ぶ馬がいるとすれば、この馬ライスシャワーしかいない。
ミホノブルボンの三冠を阻止し、メジロマックイーンの春天三連覇を阻止し、常に強い何かに全力を持ってぶつかっていった小柄な黒鹿毛。決して「美しい」という走り方ではなかったけれど、自分の限界のさらにその向こうに向かって走っているかのような我武者羅なその姿は紛れもなく「美しかった」。
守りに入ることなく常に「挑戦者」で居続けた彼の雄姿を今も忘れられない。彼にもう一度会いたい。それがもう決して叶わないことだと知っていても、それでも会いたいと思わずにはいられない。せめてその血を継いだ仔が居てくれればいいのに、とずっと思ってきたけれど、このゲームに出会って、種牡馬カードにライスが居ることを知って、狂喜乱舞してカード伝説をやりまくってライスカードを数枚ゲットした。いつか納得のいく牝馬が作れたら、ライスの仔を作って、そして彼の血を残すのが現在の野望。
私にとって、ライスシャワーは本当に「永遠の馬」。どんな馬も彼以上には思いいれることができない。そんな一頭と出会ったことが、私は幸せだと思っている。
コンサートボーイ エプソム 当時、中央地方交流レースが盛んになり始めた頃、
地方競馬の関係者が、中央馬との力の差に愕然とし、
地方競馬ファンが地元のヒーローの惨敗に落胆する、
この繰り返しでした。
彼が勝った97年の帝王賞のときも中央のバトルライン、
シンコウウインディが中心視され、地方勢は、
連下まで程度の評価でした。
レースは終始バトルラインが先行し、ラスト200mまでは
圧勝かと思われました。
ところが、突然大外から2頭が追い込んできました。
これがコンサートボーイと2着になったアブクマポーロでした。
2頭の騎手ともすべての力をムチと手綱に込めているようにも見え、
またそれがまるでこれまで数々の屈辱を味わってきた
地方競馬関係者やファンの怨念にも見えました。
最後は食い下がるアブクマポーロを押さえて勝利。
ゴールした後の彼と鞍上の的場文男騎手には、
何か誇らしげなものを感じました。
この執念の勝利が地方競馬の汚名を返上し、どれだけ多くの人に
勇気と希望を与えてくれたかと思うと、グッとこみ上げるものを
抑えずにはいられません。
シンボリインディ エプソム コワイ目つき。剥き出しの闘志。
前走比-12kg、生涯で最少の馬体重484kgで望んだNHKマイルカップ。
馬郡の中、最内を突き抜けたGI勝利!この闘志こそシンボリインディ。
2001年4月1日、自身最後のレースとなったダービー卿チャレンジ。
あの時も、目がぎらぎらして、首を上下にして闘志を出してたっけ。
それでも足りず、ゲートでバンバン蹴って蹴って暴\れたっけ。
その後・・・
ゲートから出てぺったり座り込んでしまった、シンボリインディ。
立ち上がったら右後ろ脚がぶらぶらしてた、シンボリインディ。
そんな彼を振りかえる事無く足早に立ち去った、岡部騎手。
涙をこらえている、私。
合掌。
そんなに突き抜けた闘志を見せなくてもよかったのに・・・。
闘志を受けついだ仔を見たかったな。
テンポイント
チャーチル 「亡霊の孫」、「栗毛の貴公子」、「流星の貴公子」、「悲運の名馬」。これほど多くの呼び名でファンに愛された馬がいただろうか? TTGと言われた世代の一角を担い、トウショウボーイ、グリーングラスとの激闘は今も語り継がれるところである。
学歴社会の影響か、最近の競馬界では「悲願のGI」や「グランドスラム」そして「三冠馬」といった競争成績に対する見出しがばかりが目立つようになった。
それを否定をするつもりはないが、どうもストーリー性に欠けていると感じてならない。
馬と馬が競い合うその姿こそが競馬の本来の姿なんだと思うし、単純明快な「打倒トウショウボーイ」という言葉のもとに多くのファンが集いエールを送った。
「タラレバ」を言い出したらキリがないと言うが、彼にはいくつもの「もしも」が付いて回り、それが一層ストーリー性を際立たせた。
「もし皐月賞でストライキが起きていなかったら?」「もしダービーで骨折していなかったら?」「もし日経新春杯にでていなかったら?」・・・「もし生きていたら?」
ロンシャンのターフに流星が走るシーンを、今も多くの競馬ファンは描き続けているだろう。
トウカイテイオー チャーチル 最後の有馬記念、1年ぶりのレース、12月26日、その日は自分の誕生日でした
シンボリルドルフのジャパンカップを中学生の時に見て衝撃を受け『競走馬って凄い!海外の馬に日本の馬でも勝てるんだ』と思ったのをきっかけにシンボリルドルフのファンに・・・
その流れでトウカイテイオーのファンになりましたテイオーのダービーや天皇賞などのレースに一喜一憂し迎えた有馬記念。その頃JRA史上1年以上休養してGを勝った馬がいなく、主戦騎手になっていた岡部騎手が4歳馬ビワハヤヒデの方の手綱をとるということでトウカイテイオーは過去の馬になっていた。そして鞍上は去年の有馬記念を惨敗した時と同じ田原騎手になりました。14頭中6頭ものG?馬が揃い、どの馬も強く思えました。
しかしトウカイテイオーは前年とは違い好スタートをきり、道中も気持ちよさそうに走っていました。まるで自分の家に帰ってきたかのように・・・
最終コーナーでビワハヤヒデに並びかけ直線は、いつものように跳ねるような末脚でビワハヤヒデ以下を蹴散らしゴールに駆け込みました。その姿ははとても美しく帝王の名に恥じないものでした
自分も田原騎手と同じように号泣したのを覚えています今でも自分の中の最高の馬はテイオーです
グラスワンダー ナド・アルシバ
私が出会った中でこれほどまでにドラマチックで、またその名の通り摩訶不思議(ワンダー)な魅力をもった
サラブレットはいない。
圧倒的なスピードと瞬発力で、他馬を圧倒し完全無欠だった2歳時。
骨折の憂き目に遭い、エルコンドルパサーに主役の座を譲った3歳春。
復帰するも、本来の走りから程遠く惨敗を喫した3歳秋2戦。
 
“早熟?”、“距離の壁?”、“燃え尽きた?”そんな思いのまま、迎えた有馬記念。
不安を払拭して余りある復活の完勝。
ここまででも相当にドラマチック。しかし、まだまだ続くワンダーな走り。
 
久々の短距離戦ながら、他馬を圧巻した京王杯SC。
絶好調で望んだ安田記念は鼻差の2着。
またしても不安がよぎる。本当に強いのか、と。
 
 宝塚記念当日、阪神競馬場に私はいた。 
他馬を威嚇するようなパドックでの馬体と歩様に惚れこんだ。直線あっという間にスペシャルウィークを置き
去りにし、ターフに脚を叩き付けて、砂埃をあげる独特の走法に鳥肌が立った。
 
体調万全ではないものの、プライドでねじ伏せた毎日王冠と有馬記念。
前年の劇走の影響か、本来の走りが戻らず精彩を欠き、惨敗を繰り返した5歳秋。そして、引退。
 
でも、まだまだ続くワンダー劇場。
初年度こそ期待ほど産駒が活躍しなかったが、2005年は参駒が対躍進。クラシック候補も誕生した。
 
グラスワンダー。彼には多くの称号が与えられている。“怪物”、“平成のグランプリホース”、“マルゼンスキーの再来”等。私からは“MDH”の称号を与えたい―MOST DRAMATIC HORSE!!

これからも感動を与え続けてくれ!!
アグネスタキオン ナド・アルシバ
正直言うと自分の最高の名馬は2頭いて、アグネスタキオン(以下タキオン)とサイレンススズカ(以下スズカ)です。
今回タキオンを選んだのはスズカを語ると必ず泣いてしまうのでw
あの4コーナーでの悲劇が勝手に脳裏に蘇ってしまいます。
スズカは私のヒーロー、タキオンは私の英雄・・・タキオンを初めて知ったのは某競馬雑誌のPOGでした。短評の中に「兄(フライト)より体が一回り大きく、豪快な印象は受けるもののダービー馬の兄と比べるのは厳しいだろう」とありました。
ダービー馬の弟ということで指名しようかと思っていたのですが、このコメントを見てフサイチコンルドの半弟のボーンキング(以下ボーン)を指名してしまいました。(他の雑誌に「フライトよりその下はもっと凄い」との吉田照哉氏のコメントがあったのを知ったのは葉書を送った後でしたw)
しかし、タキオンを再び巡り合うまでに時間はかからず我が指名馬のボーンキングといきなり初戦の新場戦で顔を合わせたのです。
このレースには他に名牝ロジータの息子リブロードキャスト、ラムタラ産駆で後に富士Sを勝つメイショウラムセス、セレクトセールの1番馬で武豊騎乗のアドマイヤセレクトなど豪華な顔ぶれが揃っていました。もちろんボーンの応援をしていたのですが、POGで指名しなかったタキオンのことも気になっていました。
レースは超スローペースで流れ2頭ともに決して有利な流れではありませんでした。
道中も仲良く集団後方につけていた2頭ですが、反応の悪いボーンを横目にタキオンは反応鋭く抜け出し上がりを33秒台マークしあっさりと勝ってしまいました。この時からボーンを指名したのを忘れタキオンが自分のPOG馬かのごとく応援していましたw
そんな新馬戦に続く2戦目にはラジオたんぱ杯が選ばれた。2戦連続レコード勝ちのクロフネ、札幌王者のジャングルポケット(以下ジャンポケ)を相手にするだけに「せめて2着にくれば・・・」といった気持ちでTV観戦をしました。
が、蓋を開けてみれば2分0秒8のコースレコード、初戦からじつに3秒5もタイムを短縮してみせたのです。
年明け初戦のドロドロの不良馬場で行われた弥生賞はタキオンに恐れをなしてか8頭しか集まらず、当然のように楽勝しました。しかしここから微妙なズレが生じ始めたのです。
弥生賞からの帰り、タキオンは断固として馬運車へ乗り込もうしなかったし、皐月賞前の最終追い切りではウッドチップコースにどうしても入ろうとしなかったため、急遽坂路コースで追われた。こうして向かえた皐月賞。単賞1.3倍の圧倒的に支持された私の英雄はゲートをむずがり場内を沸かせていた。もっとも私にとっては予\想された事態でもあったし、目隠しによりアッサリとゲートに収まったのである。
いざ扉が開くとタキオンは悠然と好位を追走した。最大のライバルと目していたジャンポケはスタート直後に躓く不利があり、結局これが2着ダンツフレームとの半馬身差につながったと考えている。タキオンはというと・・・堂々の横綱相撲でこの2分後に勝利の美酒に酔いしれることとなる。
皐月賞後、私は正直3冠を夢見た。というよりも何か確信めいたものがピンときたのです。
けれど、既知のとおり私の英雄は屈腱炎という名の病魔に冒されていたのだ。
これは何事にも共通することと思うのだが「素晴らしい才能\との巡り合い」が我々競馬ファンを引き付ける大きなファクターの1つであると思う。どんなに天邪鬼なファンでも心のどこかにはスーパーホース願望を秘めている。
タキオンはファンの待ち望んだ英雄であった。カリスマであった。志半ばでターフを去った後もジャンポケやクロフネの活躍でより一層の輝きを放つこととなった。
当時各国の競馬関係者に「世界最強の3歳は日本にいる」とまで言われた英雄は、もし無事だったならどこまで我々を連れて行ってくれたのだろうか。
この世で最速である光速さえも彼ならば超えることができたのではないだろうか・・・。
以上で私の思い入れを終わります。
誤字・脱字など至らない点があるかもしれませんがご容赦を。
サイレンススズカ 大井 なにがなんでもサイレンススズカです!
競馬は中学生の頃から観ているんですが、たしかにナリタブライアンは3冠をとったり、テイエムオペラオーは本当に強いのか?周りが弱いのか?などと言われながらもきっちり勝ち星を積み重ね賞金歴代1位になるなど確かに強いとは思いました。しかし自分の中ではやはり段違いにサイレンススズカがNo1です!
最初のころは気にもしていなかったんですが、プリンシパルの時から応援するようになりました。長い間競馬を観てきましたが初めて応援しました。プリンシパルはなんとか勝ちましたがダービーはさすがにそう簡単には勝たしてもらえずその後は連敗が続きましたが(上村さん下ろされて軽くショック)応援はかかさなかったです。そして年が明けるとスズカが見違えるほど強くなりファンとしてはたまらない爽快な勝ちっぷりでG1含む5連勝!なんといっても6連勝目の毎日王冠が今でもスズカが1番だと言える最高のレースだったと思います!グラスワンダーが圧倒的強さで4連勝中。エルコンドルパサーも圧倒的強さで5連勝中。さすがに無理かなと思いましたが結果は後々の名馬2頭を相手に影も踏ませぬ逃走劇で勝ちました^^忘れられないです。その後を楽しみにしていたんですが天皇賞で・・・。それからも競馬は観ていますが応援したいと思う馬はいません。ディープインパクトが3冠を達成してもやっぱりサイレンススズカが1番です!
エンゼルカロ アスコット 忘れもしないメジロドーベルが勝ったオールカマーの日。その時競馬場にいた私は、なんとなく新馬戦のパドックを見ていた。1番人気はその後重賞も勝つエイダイクイン。そのパドックでダントツの最下位人気の馬がいました。名前はディル。この馬こそがエンゼルカロの姉です。
 ディルが気になったのは、パドックで毎周回ごとに私の前で止まってこちらを振り返る仔でした。なんとなく気になり写真も撮ってレースを見ていたら、あらら可愛そうに・・・他の馬の大斜行であわや落馬。でもダントツ最下位だったのに2馬負かしました♪
 それから中1週。私はまた競馬場にたまたま行きました。そこに偶然ディルが☆しかも・・・また毎周回私の前で止まるのです。その時から運命を感じた私はディルが走る日は必ず競馬場に足を運ぶようになりました。しかし、結局は未勝利のまま終わってしました・・・
 翌年の1999年の函館3歳S。勝ったのは北海道競馬の地方馬エンゼルカロ。へー、地方馬なのにたいしたもんだ!と思った私。しかし血統の欄を見てビックリ・・・母ヤマフノーザリー。。。ななな、なんとディルの妹ではないですか!!!あの仔の妹が中央競馬で勝った!それも重賞!!!!
次のレースは札幌3歳S。人気は3番、着順も3番。いやいや、中央で十分通じる器ではないですか。そして次のレースはファンタジーS・・・北海道は行けなかった。しかし京都ならいける!!とファンタジーSを見にいざ京都へ!待ちどうしかったパドック。そしていよいよエンゼルカロとご対面。
いや、本当に感動しました。あのディルの妹がずいぶんとどうとうとパドックを周回。人気だってなかなかのものです。何枚写真撮ったかわからないぐらい撮りました。結果は・・・3着。まーまー。
その後はG1にも出走!そして4歳時には中央競馬の南井厩舎(当時開業したてのホヤホヤ)に転籍。南井厩舎の目玉としてちょっと注目されました。ただ私としては関西馬になってしまってちょっと残念。流石に毎回は見に行けないわけです。でも早熟だったのかその後はぱっとした成績は残せずでした。それでも何度か遠征で関東に来る時には見に行きました。この姉妹が私にとって競馬人生最高の思い出です。
オグリキャップ 大井 オグリは、すごい!! ゲートに入る時にする、武者ぶるいをみて、一発で、惚れてしまいました。そして、マイルチャンピオンのレースで、バンブーで、きまりと思った時、オグリ真骨頂!!根性の追い込みを見て、自然に私の手は拳を握りプルプル震え鳥肌がたっていました。そして、あの有馬記念私はオグリの闘志・根性は、まだ、終わってない!!と仲間内に豪語し馬券を握り観戦し最後の直線で、声が枯れるほど、オグリ!!オグリ!!と連呼していました。そして、レースが終わり、人目をはばからず、私の顔は真っ赤になり涙を流し泣きながら、仲間内に、オグリ・オグリと叫んでいました。
絶望と思えるとこからの追い込み、最後まで、諦めるなっと言っているような走り、私はオグリキャップが大好きです。
 
追伸>最後の有馬記念の馬券。拳に握り締めて熱くなっていたので、ぐちゃぐちゃになりJRAの人に怒られてしまいました。(笑
ホクトベガ
アスコット
ドバイ(つД`)
トウカイテイオー
ロンシャン
怪我で、1年かけて、復活レースの有馬を勝った時の、田原騎手の涙、一緒に、テレビの前で泣きました
シンボリクリスエス
アスコット
引退レースの天馬のような走りが忘れられない!
ホクトベガ
アスコット
同年にベガがいたためどうしても影が薄かったが、エリザベス女王杯で見事に逆転した感動は、
今も鮮明に覚えている。その後のダート路線の快進撃も忘れることはない。最後は安楽死という最後であったが
、このゲームで再びそして子孫でエリザベスを挑戦してみたい。
コンサートボーイ
エプソム
当時、中央地方交流レースが盛んになり始めた頃、
地方競馬の関係者が、中央馬との力の差に愕然とし、
地方競馬ファンが地元のヒーローの惨敗に落胆する、
この繰り返しでした。
彼が勝った97年の帝王賞のときも中央のバトルライン、
シンコウウインディが中心視され、地方勢は、
連下まで程度の評価でした。
レースは終始バトルラインが先行し、ラスト200mまでは
圧勝かと思われました。
ところが、突然大外から2頭が追い込んできました。
これがコンサートボーイと2着になったアブクマポーロでした。
2頭の騎手ともすべての力をムチと手綱に込めているようにも見え、
またそれがまるでこれまで数々の屈辱を味わってきた
地方競馬関係者やファンの怨念にも見えました。
最後は食い下がるアブクマポーロを押さえて勝利。
ゴールした後の彼と鞍上の的場文男騎手には、
何か誇らしげなものを感じました。
この執念の勝利が地方競馬の汚名を返上し、どれだけ多くの人に
勇気と希望を与えてくれたかと思うと、グッとこみ上げるものを
抑えずにはいられません。
ディバインシルバー
アスコット
全盛期のディバインの圧倒的な突き放した逃げに魅了
京都D1200での強さは世界レベルだと勝手に思ってます
昨年7歳ながらしぶとく逃げ2着に粘るなど頑張っていました
これからも怪我せぬよう頑張ってほしいです"
レッツゴーターキン
大井
忘れもしない1992年天皇賞(秋)!
レース前、単勝11人気の同馬を私は本命にしていた!
大外から矢の如く豪快に追い込みを決めたシーンは今も鮮明に脳裏に焼きついている!
ホクトベガ
アスコット
個人的に「ベガはベガでもホクトベガ」より「砂の女王」のほうが似合っていたと思うほど、
砂のレースの印象がすごかった。それだけにドバイは悔やまれる。
現代の馬が、ドバイに遠征にいくたびに、応援する気持ちと、ホクトベガでも勝てなかったのだから
勝ってほしくないという嫉妬(?)が今でもあります。それぐらい好きな馬でした。
レディパステル
ロンシャン
デザーモのガッツでもぎ取ったオークスでしたが、紫苑Sから一年以上勝ち星に見放されたが、勝てなく
ても何度でも、またどんな展開でも追い込み続ける姿に特に惹かれた。中山牝馬Sで勝利した日はなぜか「ほっ
とした」記憶があります。エリザベス女王杯でも3年続けて出走してくれましたが、全て中心で買っていたので
やられっぱなしで終わりましたね。
メジロパーマー
チャーチルタウンズ
「次の有馬は3−6を買う」まだ出走表も出てない頃に友人達の前で何気なく言ったこの一言。
後日3−6の馬を見て、レガシーはありだけどパーマーはないだろと反論したが、「口だけなの?」と友人。
泣く泣く3−6を買って応援したっけなー。初めて300倍を超える馬券を手に入れたレースだったこともありま
すが、なによりあの大逃げに大興奮しました。
タップダンスシチー
大井
ダイスキダカラ!
ダイアナソロン
エプソム

当時中学生で競馬の事は良く判りませんでした。同級生で競馬(お金賭ける事では無く馬が走る姿)が好きだという友人が居て競馬新聞を持って来ました。
初めて見る競馬新聞を物珍しく見ながら、このダイアナソロンという牝馬の名がとても気に入り、このレースはこの馬しかないと決めました。勿論馬券は買っていませんが(笑)桜花賞でしたが見事1着になり鳥肌が立った記憶があります。
それから引退までこのダイアナソ\ロンを応援し続けました。いま思えば私の競馬はダイアナソロンから始まったと言えます。競馬をする限り(又は見る限り)ダイアナソロンの事は一生覚えているでしょうね。

エルコンドルパサー
チャーチルダウンズ
やはり凱旋門賞でのモンジューとの叩き合いがとても印象的ですね。
テレビで生放送を観戦していたのですが、テレビの前でも歓声を上げてしまいました。
負けたと言えども、とても価値ある2着だったと思いますね。
テイエムオペラオー
チャーチルダウンズ
どんなに不利を受けても最後は差しきったところ。あんなに強い馬を見たのは2度目だった
ナリタブライアン
ロンシャン
まだ競馬をよく知らず、JCで自分の頭が薄かったこともあり、ナチュラリズムとナイスネイチャの馬券を買ったり、菊花賞でブリンブリン馬券(エアダブリンとヤシマソ\ブリン)を買ったりと、とんでもない初心者の頃、有馬記念で初めて馬券を当てさせてくれたからです。さらに、その後の故障や激闘の阪神大賞典、何で安田記念じゃないのと思わせた高松宮など思い通りにならない面白さから、卒論で扱ってしまうほど競馬にはまらせてくれた1頭でした。
ライスシャワー
チャーチルタウンズ

私が心揺れ動かされた馬、それがライスシャワーです。
どんなに不調の時でも、どんなペースでも好位でレースをしてきたのに、あのレースは何かがおかしかった。
何も競馬を知らなかった私が初めて好きになった馬。必死で応援していた馬。それなのに、ライスは何処か遠いところへ行ってしまいました。無敵に強かったというわけではない。有名な母の息子だったわけではない。特別ハンサムホースだったわけではない。以前からファンだったジョッキーが乗っていたわけではない。ここが魅力、これが良い、だから好きなのではない。 きっとその馬がライスシャワーという馬だから、だから好きなのだろう。
淀に咲き 淀に散った最強・最後のステイヤー、またライスのような馬に出会えればと思います。

トウカイテイオー
エプソム

まだ沢山の方の記憶に残っていると思いますが、敢えてトウカイテイオーを挙げたいと思います。
当時、私は結婚2年目でやっと妻が妊娠し待望の子供を授かるという事で毎日を楽しく過ごしていました。ところが、ある日突然切迫流産。二人で落ち込んでいる時にこのトウカイテイオーの復活劇に逢いました。今でもアナウンサーが「トウカイテイオー!トウカイテイオーがやってきた!」が忘れられません。
一時は痩せ細ってそのまま死んでしまうんじゃないかと思われたトウカイテイオーが復活した有馬記念。田原成貴騎手の涙も印象的でした。それに力付けられたというと大袈裟かも知れませんが、私達もそれから気を取り直し今は2児に恵まれ平和に暮らしております。あの時、トウカイテイオーがやれば出来るんだという事を見せてくれたことは決して忘れられません。復活に賭けた牧場関係者、厩舎関係者の苦労も並大抵では無かったでしょう。
それに見事応えたトウカイテイオーは本当に名馬だと思います。

トウカイテイオー
チャーチルダウンズ
デビューから1800〜2000mのレースを3連勝し、関東の競馬ファンの前に初めて姿を現したのは若葉ステークスであった。7冠馬のシンボリルドルフを知る人は、やはり父との比較をしてしまう。しなやかな馬体や雰囲気は同様の物を持っていたが、決定的に違うのは顔つきであった。父はプライドの固まりのような振る舞いを見せていたのに対して、彼は“お坊ちゃん”顔であった。たが、父を知る人も知らない人も、その姿に魅せられた事は確かである。
レースはまったくの馬なりで、2着以下を寄せ付けない圧勝であった。完璧で完全なところは、やはり父譲りでしたね。
クラシック第一段の皐月賞では、大外18番に単枠指定された。2番人気は、阪神3歳ステークスを勝ち、前走の弥生賞馬でリンドシェーバーを破ったイブキマイカグラ。しかし、レースはトウカイテイオーのワンサイド勝ちで、直線で前が詰まったイブキマイカグラは4着に敗れた。2着はミスターシービー産駒のシャコーグレイド。かつて、父同士の対決は圧倒的なルドルフの勝利に終わっていた。これも何かの因縁かと言われたが、因縁と思っていたのはシービーのファンだけで、ルドルフファンにとってはシービーなどには負けるはずがないと思っていたのかもしれないですね。
サクラローレル
サクラチトセオー
ロンシャン
やはりJRA界において最近忘れられている境勝太郎氏率いるサクラ軍団ですよね。
私の場合は世代的に勝太郎調教師末期でしたのでこの2頭が思い出です、1頭は勝太郎氏が調教師でなければマイルのG1を2つくらい取れていたチトセオー、京王杯AHで的場が1回乗っただけでマイルの日本レコードを出しましたからね。
もう1頭は国内で無類の強さを見せて凱旋門賞を狙い渡欧したのに、へたれ騎手(壊し屋とも言います)武豊に壊されたローレルです。ん〜、ケイザンオーとかも良いんですけど今回はこの2頭にさせていただきました。ぜひ上場馬にしてください。
サイレンススズカ
大井
なにがなんでもサイレンススズカです!
競馬は中学生の頃から観ているんですが、たしかにナリタブライアンは3冠をとったり、テイエムオペラオーは本当に強いのか?周りが弱いのか?などと言われながらもきっちり勝ち星を積み重ね賞金歴代1位になるなど確かに強いとは思いました。しかし自分の中ではやはり段違いにサイレンススズカがNo1です!
最初のころは気にもしていなかったんですが、プリンシパルの時から応援するようになりました。長い間競馬を観てきましたが初めて応援しました。プリンシパルはなんとか勝ちましたがダービーはさすがにそう簡単には勝たしてもらえずその後は連敗が続きましたが(上村さん下ろされて軽くショック)応援はかかさなかったです。そして年が明けるとスズカが見違えるほど強くなりファンとしてはたまらない爽快な勝ちっぷりでG1含む5連勝!なんといっても6連勝目の毎日王冠が今でもスズカが1番だと言える最高のレースだったと思います!グラスワンダーが圧倒的強さで4連勝中。エルコンドルパサーも圧倒的強さで5連勝中。さすがに無理かなと思いましたが結果は後々の名馬2頭を相手に影も踏ませぬ逃走劇で勝ちました^^忘れられないです。その後を楽しみにしていたんですが天皇賞で・・・。それからも競馬は観ていますが応援したいと思う馬はいません。ディープインパクトが3冠を達成してもやっぱりサイレンススズカが1番です!
ユーセイトップラン
ロンシャン
一番すごかったのは、00年ダイアモンドS、3コーナーから一気に捲くってあっという間に突き放したレース。次は98年アルゼンチン共和国杯、直線一気に先に抜け出したグラスワンダー他を一捲くりにした勝利、勝つ時の爽快さ何とも言えなかった。しかしG3勝しているにもかかわらず種牡馬にもなれ無かったのはとても残念でした。
馬券は単複共に、勝ったレース全て頂戴しました。一番勝たせてもらった馬ですのでどうかよろしくお願いします。
ホクトベガ
エプソム
「ベガはベガでもホクトベガ。」 そんな名実況後、その後の成績は芳しくない。
障害への挑戦も考えられた。しかし、交流ダートに出て、再度開花。出るレース出るレース圧倒的な強さで勝利を重ねていった。引退レースのドバイワールドカップでの悲劇。今でも思い出し涙が止まりません。
ベガの子供、ノースフライトの子供とホクトベガの子供を戦わせて見たかった。砂の女王ホクトベガ、競馬を続ける間、ナンバーワンホースは変わることありません。
ハーツクライ
チャーチルダウンズ
今世紀最大のアイドルホースディープインパクト破ったそのれと同時にディープインパクト四冠阻止するという偉大な功績はたしたこの馬に私は唖然と言うしかありませんでしたそしてこの偉大な名馬自分の牧場で育ててみたいという気持ちも生まれましたどうかジークレさんどうかハーツクライおねがいします
シルクジャスティス
ナド・アルシバ
僕が始めてTVでリアルタイムで見た競馬が第42回有馬記念でした。
その当時はゲームで興味を持ち競馬について勉強しはじめたばかりでどの馬がすごいのかなんて友人の言うがままの馬が強いと思いながらパドックからレースまで見ていました。
この時はタイキブリザードやメジロドーベル、さらにはマーベラスサンデーにエアグルーヴといった名実共に優秀な馬が出走していたこともあり、それらの馬の中からどれが勝つのかということを予\想していたのですが、最後にゴールを1番で駆け抜けたのは4番人気のシルクジャスティスでした。今でもその時の映像が最近の事のように思います。
メジロパーマー
ロンシャン
自分は若いときから自営していたもので、遊びと言うものを出来ずに過ごしていました。すこし余裕が生まれてきた当時、仲間に誘われて初めて競馬にいったのが有馬記念。場外でしたが大勢の人に圧倒されながら、持ちなれない競馬新聞を片手に初めて買った馬券がメジロパーマーです。どうせなら最初から先頭にいる馬ののほうが夢を長く持てると思い買ったものでした。そしたらなんと逃げ切り勝ち。その時後楽園のカレー屋さんでカレーを食べていたのですが、思わず立ち上がってしまったのを覚えています。確か単勝でも万馬券あたりだったと思います。レガシーワールドが二着だったと思いますが、単勝・複勝・枠連まで取りました。残念ながら馬連は、レガシーワールドが結構人気者だったので、へそ曲がりの私は買わなかったのでした。それ以来、競馬をスローライフで楽しんでいます。競馬伝説Liveもゆっくり楽しんでいます。是非、メジロパーマーを復活させて下さい。
シルクジャスティス
ロンシャン
自分は若いときから自営していたもので、遊びと言うものを出来ずに過ごしていました。すこし余裕が生まれてきた当時、仲間に誘われて初めて競馬にいったのが有馬記念。場外でしたが大勢の人に圧倒されながら、持ちなれない競馬新聞を片手に初めて買った馬券がメジロパーマーです。どうせなら最初から先頭にいる馬ののほうが夢を長く持てると思い買ったものでした。そしたらなんと逃げ切り勝ち。その時後楽園のカレー屋さんでカレーを食べていたのですが、思わず立ち上がってしまったのを覚えています。確か単勝でも万馬券あたりだったと思います。レガシーワールドが二着だったと思いますが、単勝・複勝・枠連まで取りました。残念ながら馬連は、レガシーワールドが結構\人気者だったので、へそ曲がりの私は買わなかったのでした。それ以来、競馬をスローライフで楽しんでいます。競馬伝説Liveもゆっくり楽しんでいます。是非、メジロパーマーを復活させて下さい。
トウカイテイオー
チャーチルダウンズ
最後の有馬記念、1年ぶりのレース、12月26日、その日は自分の誕生日でした
シンボリルドルフのジャパンカップを中学生の時に見て衝撃を受け『競走馬って凄い!海外の馬に日本の馬でも勝てるんだ』と思ったのをきっかけにシンボリルドルフのファンに・・・
その流れでトウカイテイオーのファンになりましたテイオーのダービーや天皇賞などのレースに一喜一憂し迎えた有馬記念。その頃JRA史上1年以上休養してGを勝った馬がいなく、主戦騎手になっていた岡部騎手が4歳馬ビワハヤヒデの方の手綱をとるということでトウカイテイオーは過去の馬になっていた。そして鞍上は去年の有馬記念を惨敗した時と同じ田原騎手になりました。14頭中6頭ものG?馬が揃い、どの馬も強く思えました。
しかしトウカイテイオーは前年とは違い好スタートをきり、道中も気持ちよさそうに走っていました。まるで自分の家に帰ってきたかのように・・・
最終コーナーでビワハヤヒデに並びかけ直線は、いつものように跳ねるような末脚でビワハヤヒデ以下を蹴散らしゴールに駆け込みました。その姿ははとても美しく帝王の名に恥じないものでした
自分も田原騎手と同じように号泣したのを覚えています今でも自分の中の最高の馬はテイオーです
ベタールースンアップ
ロンシャン
まだ馬券を買えない学生時代。ジャパンカップを予想だけしたところ、見事に1点予\想の枠連が当たったレースの1着馬。買えてれば初の当たり馬券となっていたからw
ヤマニングローバル
ロンシャン
骨折が無ければクラッシクの可能\性もあったかもしれない。トウショウボーイ〜ミスターシービーそしてヤマニングローバルと連なるサイヤーラインが確立されていたかも。この血統が潰えるのは残念。
ブレイクタイム
大井
ディンヒルの血を持ち、安田記念で皆を黙らせた10万馬券の立役者。京成杯を連覇したりしたが、G1タイトルには届かなかった涙の馬を。大好きな馬なんで是非
パラボナソコジカラ
ロンシャン
今年、Dインパクトという馬が三冠馬となりました。
三冠最後のレース菊花賞そのレースで、Dは僕たちに夢を持たせてくれました。そう、無敗での有馬への挑戦。しかし、その思いは、届きませんでした。Dは、敗れました。
この、パラボナソコジカラという名前もはじめは、パラボナクロスという馬でした。そして、ま
たDのようなソコジカラを見せてほしい。という思いを、このパラボナソコジカラに詰めました。
クエストフォベスト
ロンシャン
青葉賞での衝撃が今でも頭に焼き付いています。先行しての横綱相撲レース後にはすっかりファンになり皐月賞、ダービーはもちろんの事ずっと応援していくつもりでした。しかしその後故障発生・・・復帰したクエストフォベストにはもう昔の面影はありませんでした。
もし故障しなければビワハヤヒデよりも歴史的名馬になっていたと確信しています。名手岡部にビワハヤヒデの騎乗依頼を断らせた天馬トウショウボーイと名牝ダイアナソロンの子クエストフォベスト現在は種牡馬になってはいますが私の血統理論でクエストフォベストの血を残して行きたいと思っています。うれしい企画ありがとうございます。どんな心の名馬が出てくるのかとても楽しみにしています。PSクエストフォベストの名前も引退ユーザーが使っています。せめて引退ユーザーが使っていた名前は使える様になると嬉しいです。
マイシンザン
ロンシャン
松永幹夫が秋の天皇賞でナリタブライアンの騎手になれるところを、師匠に一喝され自厩舎のマイシンザンを選んだところ故障で出走取り消しになった件で、山本調教師と松永幹夫との強い師弟関係を思い出す馬。重賞を勝った2回はいずれも違う騎手というところがチョットかわいそう。それから十年後、ヘブンリーロマンスで秋の天皇賞を勝った山本調教師と松永幹夫をテレビで見て思い出す馬。
セキテイリュウオー
チャーチルダウンズ
マイルに強い馬なのに何故か陣営は2000mにこだわった。
秋の天皇賞は当時マイルの追い込み馬が強かったレース。2年連続の2着にしっかり馬券は取らせて貰ったけどマイルチャンピオンを本当は獲らせてやりたかった。ちょっと臆病だったけど、、、ちょっと根性弱かったけど、後方からギューンと伸びて来る末脚が好きだった。
ダイタクヘリオス
アスコット
この馬ほど「ムラ駆け」という言葉が似合う逃げ馬もいないだろう。
マイルCSを連覇するなど、トウカイテイオーとともにマル父の存在感を魅せてくれた。
短距離馬として活躍していたのに、有馬記念にも2度出走。掲示板にも載っているのだから頭が下がる。そして産駒ダイタクヤマトも最低人気でスプリンターズSを制覇。
まさに、この親にしてこの子ありという感じである。
サクラスターオー
ロンシャン
2度のも怪我からの復活、特に菊花賞にぶっつけで勝ったのは凄かった。まさか勝つとは思ってのいなかったので。有馬記念で残念な結果になってしまったのが、悔やまれます。3度めはなかった・・・。馬券も当然だめでした。タマモクロスなどまだ対決してほしかった馬もいたのに、子供も見てみたかったのに、まだこれからの馬だったので、とても残念でした。競馬をやり始めたころの思い出ですので、少しあやふやな記憶です。ありがとう!
グラスワンダー
ロンシャン
私が初めて競馬場に行った時、目の前の新馬を先頭で楽々と駆け抜けた栗色のきれいな馬が彼でした。それ以来、彼の虜になり彼の生涯を追いかけることになりました。好敵手スペシャルウィークとの両グランプリという意見もあるでしょうが、個人的には3歳時に勝った?復活の有馬?が心に残っています。エルコンドルパサー・サイレンススズカと争った最高のG?と言われた毎日王冠、格下相手のアルゼンチン共和国杯と骨折明けに連敗し、所詮早熟馬だった?もう終わった?等と囁く声もありながら臨んだ有馬記念。直前の調教で初めてステッキを入れられ気合を注入されたグラスワンダーは4コーナー抜群の手ごたえで上がって行くと、メジロブライトの急追を凌ぎ見事勝利。ゴール前、TV画面の前でグラス!グラス!と無意識のうちに叫んでいました。本当にすばらしい復活劇でした。
その後も距離を問わず一線で活躍し、宝塚記念での故障を最後に引退しました。負けはしたものの、故障する前までの手応えは勝ったテイエムオペラオーを凌ぐものに見えました。競馬にたらればはタブーですが、もし骨折しなければ?もし調整が順調だったら?、今以上に歴史に名を残す最高の名馬になっていたと思います。私の中では、永遠に史上最強馬です。
エルコンドルパサー・スペシャルウィーク・サイレンススズカ・エアジハード等、素晴らしいライバルたちに恵まれたことも彼の魅力をより一層引き出したのではと思います。まだゲーム内で彼の活躍産駒は出ていませんが、是非彼の仔から活躍馬を出してみたいと密かに思っています
ディープインパクト
大井
はじめまして!このゲームを始めて約1年くらい経つでしょうか・・・実はこのゲームを始めるまで競馬の事は、まるで素人でした。しかし、このゲームを始めて大変、奥深い事が分かり、そのうちTVでも観る様になりました。
そして、ディープインパクトに強い衝撃を受けました。この馬は、自分が競馬に興味を持つようになって初めて衝撃を受けた馬なので「むつみ厩舎」に是非と思いまして。それと、現在LV8なのですが、なかなか強い馬ができないもので・・・。お願いです、是非「むつみ厩舎」にディープをお願します!ペコリ!ペコリ!
ライスシャワー
大井
3歳時はブルボンの宿敵、4歳春にはマックイーンの刺客。長距離での勝負強さを発揮したライスシャワー。その後、故障を乗り越えて巻き返した天皇賞、そして種牡馬入りすることを許されず走った宝塚記念、淀で散ったのも何かの因縁か。その仔を見てみたかったという思いをこめて、熱望します。
シンボリルドルフ
大井
シンボリルドルフ、彼には驚異的な先行力とパワーで競馬界には無い絶対に勝つというものがあった。
彼にはこんな話がある
いつも冷静沈着な騎乗で知られる岡部幸雄騎手だが、この時は少々焦ってしまったようである。岡部騎手は、第2
コーナーの辺りで、先頭と離され過ぎてはまずいと判断し、シンボリルドルフに前に進出するよう指示を出した

 ところが、シンボリルドルフは岡部騎手の思惑に反し、まったく反応しない。こんなことはこれまでになかっ
たことである。もっと強くゴーサインを出しても、やはりシンボリルドルフは動かない。
 
 馬主席で観戦していた和田氏は、岡部騎手の指示を無視してシンボリルドルフが動かない様子を見て、異変を
悟った。
 
 「これほどの馬でも、ダービーは獲れないのか」
 
和田氏はこの時敗北を覚悟し、静かに眼を閉じた。絶望する和田氏、鞍上で冷や汗を流す岡部騎手をよそに、シ
ンボリルドルフは向こう正面を過ぎてもまだ進出の気配を見せなかった。
 
 岡部騎手も諦めかけたそのころ、シンボリルドルフはようやく動いた。第4コーナーをまわった辺りで、シンボ
リルドルフは、岡部騎手の指示もないのに勝手に進出を始めると、他馬を次々とかわし始めたのである。
 
 いったん動くと、そこにいたのはいつもどおり、否、いつも以上に強いシンボリルドルフだった。シンボリル
ドルフは、最後にはゴール前で馬群からきっちりと抜け出した。無敗の二冠達成である。着差以上の強さを見せ
た圧勝だった。
 
 初めてのダービー制覇を果たした岡部騎手だったが、このとき彼は勝利の喜びとともに、背筋の寒さにも似た
感覚を抱いていた。野平師と岡部騎手は、新馬戦からシンボリルドルフに競馬がどういうものかをずっと教えて
きたはずだった。デビューしたばかりの新馬は、レース中にいつも先頭に立とうとして息も入れずに突っ走って
しまい、直線で馬群に呑み込まれることが珍しくない。しかし、競馬は道中に前の馬から離されても、最後に差
し切ればいいのである。野平師、岡部騎手は、ルドルフには新馬戦でデビューしてから、ずっとそのことを教え
ながら競馬をさせてきた。
また、ルドルフは生まれてからなんと20分で立ち上がったという"
ニホンカイユーノス
大井
日本一小さい競馬場から出た、日本一強い馬。
トウカイテイオー
大井
1年振りの有馬優勝など、故障以外には負けた事なし。天皇賞も競争中の故障で5着など万全では負けなし。自分が競馬から遠ざかっていた時「フッ」とした時に新聞で見た有馬の馬柱の中にテイオーの名前を見て叉、競馬を始めました。
ノーザンドライバー
ナド・アルシバ
中学生だった当事、友達に大変な競馬好きがいました。その友達の影響で競馬を好きになりはじめたころ、若きジョッキー岡潤一郎とコンビを組み、デビュー戦を圧勝した彼女を見た瞬間、虜になりました。3歳時に牡馬相手の重賞を二つも勝ち、クラシックでの大活躍を期待したものの、惜しくも勝つことができず、能力の底を見せぬまま引退。そして友達とも高校で学校が別になり、しばらく競馬から遠ざかっていましたが、現在、大人になり、お金がある程度自由になったため、ノーザンドライバーの子供達の一口馬主となり応援しています。競馬に『タラ・レバ』は禁物と言いますが、そんな大好きだったノーザンドライバーの現役時代の姿が蘇ってくれタラなぁと願わずにはいられません。
バンブーメモリー
ナド・アルシバ
オグリとの激闘が有名だが、ダイゴウシュールとの安田記念が記憶に残っています。
競馬予\想の楽しさを教えてくれた馬です。今なら万馬券だったんですけどね!
予想の決め手はダイゴウが雨の鬼、バンブーが井崎氏の竹やぶから1億のコメントでした!
このレースがなければ競馬は続けていず、JCのゴール前で“オグリ”などと絶叫することもなく、スズカの悲しい姿も見ることがなかったなあと深々と考えてしまいました。
長文で申し訳なかったですが、つい書きたくなってしまいました。
 
エガオヲミセテ
チャーチルダウンズ
エガオヲミセテは、中央競馬界で初めて「ヲ」の字を付けたことでチョットした話題になった牝馬でした。そしてエガオヲミセテのお母さんカーリーエンジェルはエアグルーヴと姉妹(2頭はオークス馬ダイナカールの娘)ということで、エガオヲミセテはオークス馬エアグルーヴの姪っ子というオークスづくしの名牝の家系だった。
そんなエガオヲミセテは、デビュー5戦目でオークスに挑戦する。しかしエリモエクセルが優勝したこのレースでは、エガオヲミセテは15着に終わる。しかし、その後、年末に開催された阪神牝馬特別(G3)では、見事重賞制覇を果たす。かつて敗れたオークス馬、エリモエクセルを押さえての優勝だった。ところが、6歳の東京新聞杯で14着と振るわず、立て直しの為に放牧に出された時、悲劇は起こた・・・厩舎が火災、未明の火災で逃げることも出来ずに、無念の最後を遂げてしまった。
ファビラスラフイン
ロンシャン
秋華賞で腎臓摘出後の松永幹夫と共に人馬とも復活。ジャパンカップでデットーリ騎乗のシングスピールにハナ差の惜敗。あのゴール前は本当にしびれた。
ヒサモト
ナド・アルシバ
戦前の馬なのですが、競馬伝説をプレイしてからクリフジの過去の強さに驚愕し、色々と調べていく中で牝馬でダービー制覇をしたヒサモトの競争にとても驚きました。
しかもタイムは当時のダービーレコードである。競馬という娯楽を楽しむようになり、数々の競争を見てきましたが牝馬でレーコード決着。更には現在のサンデー世代との日本競馬歴の勝負付けとしても、是非この目でこの手で数々の現在の名馬たちと死闘を演じ、ダービー制覇を実現してみたいものです。
地味な血統ではあるが、純粋な日本代表としてワールドカップ年でもある今年に最高のレースを最高の舞台で実現したいです。
シャマーダル
大井
最近の馬ではありますが去年の3歳世代の中で世界最強だと思っていた一頭です。去年の凱旋門賞馬ハリケーンランに唯一土をつけた馬でもあります。
私がシャマーダルのレースを初めて見たのはもうこの馬が引退した後でした。たまたま近くの喫茶店内のディスプレイで海外競馬特集がやっていて、そこでフランスダービーを見れたのがきっかけでした。当時私は世界3歳の中でモティベーターとハリケーンランに注目していたのですが、そのハリケーンランの猛烈な追い込みよりも必死に耐え抜いたシャマーダルの逃げに衝撃を受けました。
その後どうにか探し当てたレース映像で圧勝劇を見て、完全にシャマーダルに惚れ込みました(同時にディープインパクトなど日本の3歳に対する興味が薄れてしまいましたが)。海外競馬をいろいろ調べて、もともと体が弱かったこと、芝ではついに無敗のまますでに引退してしまっていることを知りました。フランスダービーではハリケーンランのほうがいい評価を受けているようですがそれでも私はシャマーダルこそ最強だと信じていますし、勝ったのはシャマーダルだぞと言いたいです。早すぎた引退とその後のハリケーンランの活躍でこのままだと埋もれてしまいそうですがもっとこの馬のことを広めてほしいです。その細く長い脚から生まれるスピードあふれる走りを見てほしいし、またこの馬の激動の過去を知ってほしいと思っています。
私はシャマーダルを忘れさせるほどの馬に巡り合うまで、この馬を生で見られなかったことを後悔し続けると思います。
ダイタクヘリオス
ロンシャン
ダイタクヘリオス。頭を上げ、口を割り、首を振りながら走る姿はとてもじゃないが華麗なサラブレッドの走りではない。女性ファンから見向きもされなかったのも仕方ないところ。しかしこれがとても強い逃げ馬。スピード任せにハナを切るといつもの走りでそのまま押し切ってしまう。何度レコードの文字を掲示板で見ただろうか。マイルチャンピオンシップを2連覇したのは並の実力者ではないことを物語っている。
しかし、ダイタクヘリオスの強さを最も感じたのは平成4年の天皇賞秋。直線の長い東京コースで距離2000m。前走の毎日王冠で強い勝ち方をしたとはいえ、1800mはトリッキーなコース。府中の2000mはたった200m長いだけなのに小細工が効かない。しかも女性ファンのみならず全国の競馬ファンが応援するトウカイテイオーが1番人気だ。
レースは、メジロパーマーがハナに立ち、ダイタクヘリオスは2番手につける。が、3コーナーではパーマーを交わして先頭に立つと4コーナーから直線へ。そしてスパートを掛けるがが彼の見せ場はそこまでで、結局8着。ではなぜもっとも強さを感じたのか?。前半1000mを57.5のハイペースで走り、1600mでは1.33.3と当時のマイルレコードで駆け抜けたのだ。府中の疾風となった彼が、次走淀のマイルで先頭を譲る訳がない。マイルチャンピオンシップの勝ちを確信させる、天皇賞秋のレースだった。
ドバイミレニアム
ロンシャン
ゴドルフィンが2000年のドバイワールドカップにかける意気込みをそのまま実現した馬。名は体を現す。
キョウエイレアー
ロンシャン
皇帝シンボリルドルフが無敗の三冠を達成した年の秋の天皇賞。新装した府中の芝を軽快に逃げるピンクの帽子の馬がいた。これが隻眼の勇者キョウエイレアである。
悲運にも幼少の牧場時代に失明した彼の運命は大逃げという戦法を選択しなければならなかった。また左回り巧者と言われる由縁もそれが原因であったと思われる。
バテそうでバテないスタミナ、天皇賞もあわやの場面も演出した。隻眼も逃げ戦法も彼の運命。その運命の中で懸命に走るキョウエイレアが心に残る一番の馬です。
タイキシャトル
ロンシャン
理由は簡単、速くて強い!芝でもダートでも、そして海外でも勝てる馬。レースを見ていて、特に海外のレースの時には、特に興奮しました。
ヒシアマゾン
アスコット
1993年のデビュー以来、中舘騎手を主戦に活躍した馬ですが、牝馬の中では一番思い出に残っている馬です。
デビューから12戦目の有馬記念まで一度も連を外すことなく、古馬、牡馬に混じりながらも激戦を展開致しました。当時は牝馬も牡馬もスターがひしめく中、人気を背にきっちりと差しきる姿にいつも感動しました。常に勝つ競馬をしよとする姿は、もはや牝馬を関係なく尊敬に値する馬です。最後の一年は体の力も衰え、負けるレースが続きましたが、懸命に走る姿に一層競馬が好きになったものでした。
一番の思い出に残るレースは1994年の有馬記念です、当時最強のナリタブライアンを負かしに行ったレースは今でも思い出に残っています、近年はあんな根性のある牝馬がなかなか出てこないですね・・・・。
サーアイヴァー 大井
現在の競馬の血脈の元となる数多くの名馬の主戦騎手を務めた名手レスター・ピゴット氏が最大の賞賛を贈った名馬であります。
かつて「レスター・ピゴットの選ぶベスト12頭」というビデオが販売されていましたが、的中馬券を払い戻して購入し食い入るように見つめた当時を懐かしく思い出します。古い競馬ファンに貸したままビデオは戻らず残念ながら絶版で、もはや再び見ることが出来ないのが残念ではありますが、思い出せる数頭を挙げるだけでも、ニジンスキー、リボー、ロベルト、そしてサーアイヴァーなど名馬のオンパレードでした。
そして不思議な縁を感じたのが、オグリキャップとの叩き合いを制して世界レコード2.22.2でJCを制覇した名牝ホーリックスをニュージーランドの牧場に訪ねた時のことでした。ケンブリッジ牧場を訪ねた時、その牧場を支えた大種牡馬の大きな墓標にはサートリストラムという名が刻まれていました。ギネスブックに載っているG1馬を48頭輩出した大種牡馬であります。そしてその父こそ、あのサーアイヴァーだったのです。
世界の名騎手レスター・ピゴット氏が最高の賞賛を贈った大種牡馬サーゲイロードの名作、サーアイヴァーをこのゲームに是非復活させてやりたいと思っています。
タイキシャトル
大井
ジャックルマロワ賞を制したことはもちろんですが、どろこんこの安田記念、マイルチャンピオンでは一頭次元の違う差し足でスピードとパワーの違いをまざまざと見せつけられました。マイル路線を中心に歩んできましたが、2000mくらいならいけたかもと思ってしまいます。秋・天皇賞にでても面白かったかもとついつい考えてしまいます。産駒にはぜひ、中・長距離路線でも活躍してもらい、本当の怪物だったことを証明して欲しいと思います。残念なのは、引退レースのスプリンターズステークス、まさかの3着!!競馬の怖さも教えてもらいました。
マルゼンスキー
チャーチルダウンズ
昔は、外国産馬はもちろん持ち込み馬もクラシックに参戦することも出来ませんでした。朝日杯3歳ステークスをブッチギリで勝った時、クラシックの3冠はマルゼンスキーのものだと確信しました。僕の中では幻の3冠馬でしたけどね。もう一度生まれ変われるなら、当時の能\力のままクラシックに出してあげたいです。去年の3冠馬のディープインパクトとも互角の勝負が出来たと思います。時代が悪かったと思います。 マルゼンスキーもクラシックに出たかったと思います。せめてゲームの中でクラシックに挑戦させてあげてほしいです。
ブラックホーク
大井
重賞で勝ちG1になるとなかなか勝てなかった。
G1は獲れないと思っていましたが横典のおかげでスプリンター獲れました。
今年から産駒デビューしていますが活躍して欲しいです。1番好きな馬です。
ノースフライト
ナド・アルシバ
自分が初めて競馬というものを知るきっかけとなった馬でした。高校生の頃、同級生がスポーツ新聞を広げ、当時牝馬クラシック最後の3冠・エリザベス女王杯の予\想が大きく掲載されていた新聞でした。当時の新聞はベガ一色。オークスや桜花賞を制したという話でしたが、当時は競馬のことは全く知らず、「へー」というだけでした。ただ、みんなで予想し合っていたので、私はふと名前が気に入った「ノースフライト」を推しました。レースを見ることなく、結果だけを後で聞かされて、2着だったんだ惜しかったなぁっていう程度でした。
その後、ノースフライトが勝つ度に同級生が私に報告に来てくれていました。また、勝ったんだという程度だったのですが、その次の年の春、安田記念にて初めてテレビ中継で競馬を見ることになったのです。
他の馬がどうというのは関係なく、ひたすらノースフライトを見ていました。最後の直線、外からすごい勢いで飛び出してきたノースフライト、その肢体は非常に美しく、一気に虜となりました。それから競馬をよく見るようになり、ノースフライトただ1頭を追い続けました。
しかし、その後2戦しか走らずに引退したのは非常に惜しまれましたラストランを見事な勝利で終えた時には非常に感動させられました。
サクラシンゲキ エプソム いつも玉砕覚悟の大逃げを打ち4コーナーで馬群に沈む・・・
こういう個性的な馬が最近いなくなりましたね。
マチノコマチ
ロンシャン
小池騎手に初グレード制覇をもたらした馬なので。阪神牝馬特別では初めて大きく取らせてもらいました。
ツルマルボーイ
大井
いつも強烈な末脚で追い込んでくるボーイが好きでした。
もうG1は獲れないと思っていましたが安田記念で獲れました。
産駒の活躍が楽しみです。
ライスシャワー
アスコット
私にとって「永遠の一頭」と呼ぶ馬がいるとすれば、この馬ライスシャワーしかいない。
ミホノブルボンの三冠を阻止し、メジロマックイーンの春天三連覇を阻止し、常に強い何かに全力を持ってぶつかっていった小柄な黒鹿毛。決して「美しい」という走り方ではなかったけれど、自分の限界のさらにその向こうに向かって走っているかのような我武者羅なその姿は紛れもなく「美しかった」。
守りに入ることなく常に「挑戦者」で居続けた彼の雄姿を今も忘れられない。彼にもう一度会いたい。それがもう決して叶わないことだと知っていても、それでも会いたいと思わずにはいられない。せめてその血を継いだ仔が居てくれればいいのに、とずっと思ってきたけれど、このゲームに出会って、種牡馬カードにライスが居ることを知って、狂喜乱舞してカード伝説をやりまくってライスカードを数枚ゲットした。いつか納得のいく牝馬が作れたら、ライスの仔を作って、そして彼の血を残すのが現在の野望。
私にとって、ライスシャワーは本当に「永遠の馬」。どんな馬も彼以上には思いいれることができない。そんな一頭と出会ったことが、私は幸せだと思っている。
ミホノブルボン
エプソム
生まれて初めてみたレースがブルボンの菊花賞でした。当時は3冠の意味すらわからず 親父にすごいことなんだぞって言われてもさっぱりでした。そしてどんどん競馬にはまっていきそのきっかけとなったミホノブルボンのビデオを買って全レースみました。まずデビュー戦でブルボン生涯唯一の追い込みの足にしびれどんどん長くなっていく距離への不安すら凌駕する逃げにしびれ初めてみたときはあっけなく負けたなぁーとしか思わなかった菊花賞でも ライスシャワーに負けたものの もう一度マチカネタンホイザを差し返したのには感動すら覚えました。違う世代とのレースが見れなかったのが唯一の心残りですね。血統的にもたいしたことない血統だけど あの美しい馬体。筋肉隆々で鍛えられたからこそのものかもしれませんが その調教に耐えたブルボンもさすがということでしょうね。普通なら菊を勝ったライスシャワーが気になるはずなのにブルボンのことを好きになったのはもう運命でしょう(笑)もし菊以降も走ってたらって思うとほんと残念ですね。なによりいい後継馬がまだでてないので せめて競伝の世界で血を残していけたらって思います。
タップダンスシチー
ロンシャン
03年のジャパンカップ、国内の最強馬も、新世代のルーキーも、歴戦の海外馬も、全てを遥か彼方へ置き去りにした9馬身差の圧勝劇───
04年の宝塚記念、日本の代表\として海外に向かうためには負けられない一戦を完勝して見せたあの強さ───
05年の金鯱賞、8歳にして47年ぶりにJRA平地重賞3連覇の偉業を成し遂げた、その精神力───
積み重ねた年月に裏打ちされた確かな強さがこの馬にはありました。大好きです!
タップダンスシチー
大井
以前友駿ホースクラブでタップダンスを買えるチャンスがあっただけにJCの圧勝なんか見るとうらやましい限りです。逃げ馬で強い馬はサイレンススズカとタップくらいです。
あまりいないので異系なので産駒が楽しみです。
エルコンドルパサー
ロンシャン
スペシャルウィーク、グラスワンダー、エアグルーヴ、サイレンススズカ・・・。
日本で戦った相手も超GI級、そして世界へ―。
2000m以上G日本馬初制覇をもたらし世界最強の証、凱旋門賞。サドラーズウェルズの最高傑作モンジューに半馬身届かずも日本競馬が世界と戦えることを証明し、未知の扉を半分開いてくれたこの馬にとても感動しました。日本に一筋の希望の光を残し、天へ帰っていきました。神様が使わせた馬だったのかもしれませんね。
キングマンボ×サドラーズギャル再現配合ができるなら是非させてあげたいです。血統の構造上無理なのでしょうか?
タイキシャトル
ナド・アルシバ
文字通りの「マイルチャンピオン」。マイルは7戦7勝の負けなし。向かう所敵無しとまでいわれた名馬でした。
タイキシャトルに魅せられたのは私がまだ小学生の時です。当時競馬のゲームにはまっていた私は、本物にも興味をもちはじめていました。そんな時、たまたまテレビをつけた時のレースが、シャトルがレコード勝ちした京王杯だったのです。そして一瞬でシャトルの虜になりました(笑)
しかし、シャトルのレースの中でも、一番記憶に残っているのがその次のレース。平成10年「安田記念」です。序盤、やや前線につけていたシャトルが直線で姿を消した。一瞬、まさかと思う。内ではロイヤルスズカ、ヒノデクロス、アライドフォージスが競いあっている。このままでは・・!!
しかし、そんな心配をよそにその遥か外を、まるであざ笑うかのように一閃!!世界を決定付ける快勝でした。最終的に、世界を含めてGIは通算5勝。GI5勝などという名馬は他にもいるでしょう。でも、初めて本物の競馬の楽しさや感動を教えてくれた。シャトルは今でも私にとって一番魅力的な名馬なのです。
ディープインパクト
ロンシャン
私は、競馬歴は浅くただ単純に馬券だけを買う毎日でした。そこにこの馬「インパクト」に出会いました。今年は、仕事が忙しく、仕事のミスが連続して、上司に怒られぱなしで殆ど毎日家に帰るとため息が止まらなくなるほど追ち込んだ日々をすごしていました。でもこの馬との出会いでどんだけ救われたか分かりません。
冠最後の関門菊花賞の前日は、興奮して眠れなくなるくらいワクワクしていたのを思い出します。菊花賞では、インパクトが掛かってしまって、道中これは駄目だなと諦めそうになりましたが最後の直線で追い込んで来た時には、涙が出るくらい感動しました、3冠を取った時、僕も諦めたらそこで終わりだ、仕事をやめようか迷っていた自分が恥ずかしくなり 今も自分の弱い心に負けない様に、インパクトの頑張りを思い出してがんばっています。有馬記念は残念でしたが、今の仕事をがんばっていけるのも、インパクトのおかげです。
こんな 勇気と力を与えてくれた馬を育てる事が出来たなら そんな事を考えてしまいます。それから この競馬伝説は、本当に楽しいです。こんなすばらしい競馬の世界を作っていただきありがとうございます。これからも、大変だとおもいますが、運営者の方々いつまでも、この世界この競馬伝説お守りください。それではお体にお気をつけてがんばってください、 ありがとうございました。
ノアノハコブネ
大井
1985年のオークス馬、当時のG1は20頭以上の他頭数が当たり前の頃、いかに直線長い東京競馬場といえども、28頭立てで最後方から直線一気は、この馬ならではの末足でした。
この馬との出会いは、忘れな草賞。残念桜花賞ともいえるこのレースで直線短い阪神競馬場を疾風のように突っ込んできたこの馬を見たとき、オークスはこれだ!と思いました。
散々、周りの友人たちに「ノアノハコブネがオークスとる」と言いふらしたので、本当にオークス馬になったときは感無量でした(ただし馬券ははずしましたが・笑)。しかし残念なことに、その後阪神大賞典で骨折、予後不良となったときは、本当に涙しました。
父:アローエクスプレス、母:ユトリロなんて血統、再現は無理なのかもしれませんが、持続力のある超追込馬で牝馬が生まれたら、いつかはつけたい馬名として、取ってあるんです。
エルコンドルパサー
アスコット
新馬戦のダートレースからずっと追ってました。
共同通信杯も雪の所為でダートに変更されたり、続くNZTも初の芝戦が重で走らされたりと不遇ばかり続いていたのにそれにもめげずNHK、JCそして海外と勝ってくれたのはホント、ファンでよかったとあらためて思ったくらいでした。
芝、ダート、距離(1400〜2400)、馬場状態に関わらず連帯率100%を取り続けたこの仔はやはり化け物です。
あ、そうそう私はいまでもNHKのときに買ったストラップ付けてます(笑)
グラスワンダー
ロンシャン
当時の朝日杯3歳ステークス勝ちの後骨折で10ヶ月も出走できなかったが、有馬記念で勝利。翌年の有馬記念でもスペシャルウィークと4センチの激闘を繰り広げたレースは印象深いです。
サクラスターオー
ロンシャン
皐月賞を勝ったあと脚部不安にて(確か屈腱炎だったかと???)ダービーを回避。ぶっつけ本番で挑んだ菊花賞を制し晴れて2冠。そして、古馬と戦ったあの有馬記念。私はハラハラドキドキしながら中山競馬場の4コーナーで、この年のダービー馬メリーナイス号と皐月・菊花賞馬サクラスターオー号の馬券、3―3を握りしめ応援。スタートした途端、メリーナイス号落馬。馬券は諦めた。もう後はスターオーの優勝を望むのみ。そして、運命の4コーナーを回ったところで、一頭減速する馬が。赤い帽子!ああサクラスターオー号だ!なかなか止まれず折れた足が痛そうだ。今でも記憶にある片足を上げた姿。無事ならきっと勝っていただろう。結局、みんなの願いも届かず予後不良となりました。是非あの強さを復活させたいです。
ポジー
ロンシャン
友達がたまたま懸賞で北沢騎手のサインをもらい、友達と北沢騎手のファンになった。当時の北沢騎手のお手馬がポジーであった。4歳時は勝てる条件戦で、岡部騎手に乗り代わりることが多かった・・・
しかし、5歳時、北沢騎手で連勝、無事OP入り、そして迎えた秋の天皇賞。周囲はナリタブライアンの戦線復帰で盛り上がっていた。レース中、自分もナリタブライアンばかりに目がいき、光を放ったポジーの末脚を見逃してしまっていた
反省し、次走の愛知杯熱視線を送った。結果、1番人気で敗退・・翌年は不振が続く。調子を取り戻しつつあり、期待した夏の漁火Sは加藤騎手に乗り代わり・・・もう引退だろうと思っていた。ポジーを忘れかけてた頃、平安Sに出走していることを知った。道中は後方。しかし直線、先頭を猛追、4着。これが一番好きなレースだ。次走はフェブラリーSとなった。しかし、賞金順で17番目。1頭回避しないと出られない。願った。出走を心から願った。そして・・・金曜の夕方、確定出走表を夕刊で確認した。
ポジーの名前は、なかった。
テイエムオペラオー
ロンシャン
4歳(現在の年齢で3歳)の時はナリタトップロード・アドマイヤベガと3強を形成していたものの、特に印象深い馬ではありませんでしたが、明け5歳になった2000年は出走全レース勝利という強烈なインパクトを残してくれました。何馬身も差をつけて圧勝というレースは少なかったですが、それでも1年間負け無しで全てG・G勝利で深く印象に残っています。
ヤマトダマシイ
ロンシャン
もし・・予後不良が無ければ・・G12つは取れたかもの逸材。
もう、何十年前でしょうか・・・血統は忘れてしまいましたが・・・新馬戦で、ヤマトダマシイ号という馬を見た時、ものすごい凄い衝撃を受けました。藤澤厩舎で、騎手は当時岡部騎手の陰で目立たなかった、橋本広騎手。持ったままのゴールシーン!と実況解説者の絶賛ぶりが、未だに忘れられません!! 
どうでもいい話だとは思いますが、、もし・・予後不良にならなければ・・と。
メジロパーマー
ナド・アルシバ
一度障害に落ち再び平場へ。グランプリホースながらいつも低評価の逃げ馬。そんなメジロパーマーを追いかけ続けた結果、有馬記念にて年間グランプリ制覇に輝くも年度代表馬にはなれず。
最後の直線まで競馬を楽しむ事無く4コーナーで終わる競馬も多々ありましたが、常に3コーナー手前までは夢を見させてくれて。更にたまに夢を現実にしてくれる。そんなすばらしい馬でした。それから逃げ馬が好きです。
ゼンノロブロイ
チャーチルダウンズ
僕がゼンノロブロイと出逢ったのはロブロイが3歳の春で第63回皐月賞。僕は名前の第一印象でこの馬はいつかG1を勝つ馬だと確信しました。それからずっとロブロイがG1に出るたびに馬券を買っていました。しかしいつも2着か3着ばかり…それでも応援し続けました。
そしてロブロイが4歳のときの宝塚記念ではロブロイの適正距離だったので絶対勝てると思っていました。しかしまたしても負け…さすがに諦めかけていた天皇賞(秋)。
やっと僕の応援してきたロブロイが勝ったとき、あまりの嬉しさに涙がでてきたほど嬉しかったです。そしてその年、テイエムオペラオーに続いて天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念と秋古馬三冠を達成したときやっぱり僕の目は正しかったと確信させてくれたロブロイ。
残念ながら去年は勝ち星がなかったですが、僕はいつまでもロブロイのファンであり続けたいと思います。そして今度はロブロイの子供たちを応援していきたいと思いました。
サンデーサイレンス
ロンシャン
BCクラシック・ケンタッキーダービー・スーパーダービーなどすごい成績が印象で産駒は国内G1をほぼすべて制覇をしたことがすごいことですね。そして、その活躍は日本の血統史を一変させたことがまたすごい。激しい気性勝負根性・・これが強い産駒になってるのかと感動しました。02年の突然の訃報はすごく衝撃でありました。そのあと、後継者・・音速の貴公子サイレンススズカがレース中の故障も衝撃でした。亡き父の後を追うことないのにと思いました。これだけの偉大の種牡馬はもう出てこないような気がします。それでも、残っている子孫に期待をしていき競馬を楽しみたいと思います。
サンエイサンキュー
ロンシャン
スピードと切れ味。
とにかく、素晴らしい切れ味とスピードが持ち味・・・。
本当に凄い馬でした。田原成貴騎手も絶賛が懐かしい・・・。
ディバインシルバー
ナド・アルシバ
私の伯父の持ち馬でJRAでは今一息でしたが地方交流レースでは良い成績を残してくれた心の名馬だから
イソノルーブル
アスコット
本当に思い入れが強い馬は、ユーワアプソリューといいまして、自分の馬主名のモデルになった馬ですが、マイナーすぎるのでww この馬のお姉さんは桜花賞を落鉄したまま走った裸足のシンデレラとして有名なイソノルーブル。もちろんイソノルーブルが大好きで初めて関東から京都へ桜花賞観戦を行い、泣く泣く帰った記憶が今も強烈に残っています・・。その弟のデビュー戦も強烈で、こちらも東京競馬場での観戦を行なった訳ですが、馬場入場後に放馬>除外・・・・この兄弟には本当に泣かせてもらいました。
ちなみに、ユーワアプソリューは未勝利を勝った後、調教中の骨折により予\後不良となってしまいました・・・・。
カツラギエース
大井
人気薄ながら世界の強豪と日本の3冠馬2頭(ミスターシービー・シンボリルドルフ)を押さえJC逃げ切り勝ちを治める。当時はまだ世界の壁は厚く日本で開催されるJCでさえ日本馬の名馬達でも劣勢状態にあった。その中で偶然とは言え、夢の2年連続3冠馬出現でJC勝利がおおいに期待された中、それを押しのけて見事な逃げ切りしたのがカツラギエースである。そのJCを実際に東京で観戦したのが思い出される。
あの感動は今も忘れてない。
ナリタブライアン
チャーチルダウンズ
ナリタブライアンが3冠を獲った年に競馬の世界を知り、3冠レースを勝ち進むとともに自分も熱狂して競馬の魅力に取り惹かれたからです。この馬なしでは、語れません。
ナリタブライアン
ロンシャン
競馬を好きになるきっかけともなる馬でした。
その頃は、学生時代なので馬券も買ったことも少なく、ただ淀競馬場が近いせいか開催日には生で競走馬をみることができ、それもたまにですが・・あとウイニングポストで競馬を知るぐらいでした。
3冠馬がすごいとゆうのは、ゲームやメディア等では知りつつも、それほどすごい事ではないように思ってなかった気がします。ただ、友人が競馬好きがいて淀に3冠馬見にいこうといわれると、好奇心が旺盛な自分としては、いかざるおえず、朝6時ぐらいにナリタブライアンの3冠がかかった淀競馬に並んでいました。
天気は、曇りで、開門と同時に席取りダッシュ!新聞紙をひいて好ポジションをGETし、この時点では友人を含め本当の競馬好きの人よりは冷めてた気がします。
そして、それとなく馬券を買いつつレースを消化し、さて11R菊花賞、馬券を買いにいこーとしても人の壁壁壁・・・(あれほど混んでた淀は過去みたことがありません!ディープのときはいってませんがw)記念馬券すら断念して、ファンファーレと共にすごい轟音、必然と鳥肌が立ち、小雨が熱気で観客から湯気がでていた気がします。
スティールキャストの大逃げの歓声で道中が進み、第3コーナーからの坂の下りでそれは起きました!ありえないスピードと共に黒鹿毛の馬体と小雨と泥で少しよごれたシャドーロールが目の前を突き抜け!その瞬間、赤いレコードの文字・・・・・
ミナイッ!ミナイッ!ミナイッ!心の中では、何故ブライアンと言わないの?と疑問がありつつも、ミナイコールを叫んでる自分がいました・・・その後、競馬にハマったのは言うまでもありませんw
マイシンザン
エプソム
某競馬のゲームで日本で有名な馬の子孫を生産することにはまり、その中でも頑張って子供を考えたのがシンザンとミホシンザンだった。そして当時の競馬界で、この2頭の子孫が走っていた。それがマイシンザンだった。
当時は競馬を観戦するだけだったが、競馬が見る楽しみもあるということを教えてくれた馬だった。95年の秋の天皇賞の直前に屈腱炎を発症し引退してしまった。このレースに出ていたナリタブライアンに対して、マイシンザンがどうレースをするのかが楽しみだったのだが・・・
種牡馬入りしてからは成績が出ずに、種牡馬生活を引退してしまったが、再び種牡馬として戻ってくることを期待したい。
サクラスターオー
ロンシャン
1987年の牡馬クラシック2冠馬。皐月賞を勝利した後、ダービーは骨折して断念。その後、ぶっつけで挑んだ菊花賞で見事に復活V。そのときの競馬中継での実況アナウンサーの「菊の季節に桜が満開。」っていうフレーズが今でも忘れられません。そして有馬記念で再度故障し、予\後不良に。満開に咲き、そして散っていったサクラスターオーが私の思い入れの名馬です。
ノースフライト
大井
初めて新馬戦を見た時からこの馬は強くなると思って追っかけており、引退レースのマイルチャンピオンシップを京都競馬場まで見に行きその時に買った単勝100円馬券を買って
いまだに自分のファイルに御守として持っています。単勝馬券として初めて買った馬券がノースフライトでした。
フジノマッケンオー
ナドアルシバ
3冠を予感した黒富士
通算成績:61戦8勝 中央39戦7勝 地方22戦1勝
主な勝ち鞍:根岸S(D6F G3)、ダービー卿チャレンジT(T8F G3)、セントウルS(T7F G3)、さきたま杯(D7F G3)
父ブレイヴェストローマン 母ドミナスローズ(母父トウショウボーイ)
父は名種牡馬、母は重賞を制した名牝という良血に生まれ将来を有望視された1頭の運命を決定付けたのはデビュー6戦目…5戦3勝2着2回という成績で臨んだスプリングSだった。
対峙したその馬はシャドーロールの怪物、ナリタブライアン。
その後3冠を制し、暮れの有馬記念までも制した怪物の3歳初戦に注目が集まったがその内容は想像をはるかに超えていた。4コーナーを2番手で回った同馬に白いシャドーロールが襲い掛かり、そして残ったのは3馬身前を行く怪物の風のみ…誰の目にも、そして同馬ですら格の違いを感じた瞬間だっただろう。この後に続く春クラシック路線で同馬は怪物を追いかけ続けたが、常に遥か先に怪物は悠然と駆け抜けた。
そして月日は流れ、同馬は3歳秋神戸新聞杯以来1年8ヶ月ぶりに怪物との再会を果たした。再開の舞台は誰の目にも異様な舞台だった…あの怪物が高松宮記念に出走してきたからだ。その間に同馬は重賞を3勝、3歳秋マイルチャンピオンシップではノースフライトとサクラバクシンオーに続く僅差3着、そして前哨戦を制してまさに充実期である一方怪物は4歳初戦の阪神大章典勝利後の故障から漸く立ち直りつつあった状態…逆転の余地は十\分にあった。しかしその最大のチャンスですら同馬は後塵を拝する結果となる、思えば3冠を共に戦った怪物に対する同馬なりの礼儀だったのかもしれない。
周知の通りそのレースを最後にシャドーロールの怪物はターフに別れを告げ、同馬は永久に借りを返すことが出来なくなってしまったが、3冠を予\感した黒富士は怪物の抜けたターフを常に沸かし98年6月のエプソムカップを最後に岩手に転厩、その後荒尾に転厩し2000年1月まで現役を続けて10歳でターフに別れを告げるまでスプリングSでの怪物の走りを伝え続けた。
ちなみに、同じく同期のナムラコクオーも地方競馬に移籍し13歳まで現役を続けている。
共に直に感じ取った怪物のすごさを移籍先のライバルたちにさぞ誇らしげに語り継いだ事だろう。常にバイプレイヤーに回った同馬ではあったが、94年に最優秀ダートホースを獲得したれっきとしたタイトルホルダーでもある。
競馬に関しては中団からやや後方を追走し直線で他馬を差しきるというスタイルで母父トウショウボーイ産駒に多く見られる決め手に優れた馬であった半面、大レースや人気を背負ったレースでのポカもあり精神的なもろさや根性の不足を指摘する声も当時も今もあると思うが芝とダートの重賞を計4勝した実力は紛れもなく一流馬の証明であったといえる。
そんな同馬も今年で15歳となる、3冠で遥か前を駆け抜けた怪物がこの世を去って今年で7年。種牡馬としては生殖能\力の問題で不合格となり、とうとう仔は残せなかったが生まれ故郷の本桐牧場にて厳しい寒さの中怪物と駆け抜けたあの時代を懐かしんでいるのかもしれない。。。
自身がはじめて見たのがトウカイテイオーの有馬記念でしたが、それと並びナリタブライアンの3冠を予感したスプリングSを見た時鳥肌が立ったことを今でも覚えています。
個人的にも大好きなフジノマッケンオーを昨年は3冠イヤーで沸き、同じく若駒Sにて鳥肌の立ったディープインパクトに準えて執筆してみました^^
キングカメハメハ
大井
怪我で引退を余儀なくされた名馬怪我がなく有馬を走るこの馬の姿を見たかったのが本音です
マキノプリテンダー
大井
そこそこマイナーな馬で申し訳ありません。でも競馬が初めて好きになった馬です。
後から調べて後々わかった事なんですが、どっかの大学で育てられて血統も微妙で1歳時のセリ値も250万でした。かなり小さい馬体で走ってたのは凄く印象が残っています。
3歳から除々に開花していき、皐月賞の前哨戦のロイヤルタッチなどがいた世代で3着に入り出走権を得ました。その皐月賞当日にマキノプリテンダーの1万円の単勝1枚だけを購入し(8番人気)見守っていたのですが、彼は結局ゴール板を通過する事無く競争生活を終わりました。一般的にどれくらい勝てば世間では名馬と呼ばれるかわかりませんが、自分の中では必死に小さい馬体ながらも走ってた姿が何よりの名馬に見えました。
セイウンスカイ
ロンシャン
自分が逃げ馬に魅了されたきっかけとなった馬です。逃げ馬ながらにして、『最も速い馬が勝つ』という皐月賞、ダービーは残念だったものの、『最も強い馬が勝つ』菊花賞で、あの悠々とした逃げ。ペースを作り、そのままハナをきってゴールイン。私もこのゲームで逃げ馬の快速馬を輩出したいです!!
トウカイテイオー
ナド・アルシバ
菊花賞を目前にしての怪我で親子2代での三冠制覇を逃したトウカイテイオー。
あのキレイな馬体は忘れることができません。
古馬となっての最初のレース「大阪杯」を見事に勝利し、その年も「テイオーイヤー」となることを誰もが確信していましたが、「天皇賞(春)」「天皇賞(秋)」と惨敗・・・。「テイオーはダメだ」という声も聞かれるようになりましたが、その年の「ジャパンカップ」で見事に勝利。テイオーフィーバーが再び盛り上がりを見せました。しかし、1番人気におされたその年の「有馬記念」でまたも惨敗・・・。
怪我のせいで、次走は1年後の「有馬記念」でした。その年は菊花賞馬ビワハヤヒデが人気となっていて、1年ぶりのレースに出走するトウカイテイオーは4番人気。前年、トウカイテイオーに騎乗した岡部騎手も、その年はビワハヤヒデに騎乗する始末・・・。「トウカイテイオーなんてくるわけがない」という意見も多く聞かれました。しかし・・・テイオーは勝ちました。最後の直線、岡部騎手のビワハヤヒデが先頭に立ったところを、後方から追ってくるトウカイテイオー。ビワハヤヒデをかわし、ゴールした瞬間のあの映像は忘れることなどできません。あの勇姿をもう一度見てみたいです。
シンボリルドルフ
ナド・アルシバ
私が就職して先輩から競馬の楽しさを聞き、初めて馬券を購入したのがこの馬でした。このレースはダービーでシンボリルドルフ、スズマッハを的中させました。あれから20年以上今も競馬を続けるきっかけを作ってくれたルドルフに感謝してます。
オグリキャップ
大井
オグリは、すごい!! ゲートに入る時にする、武者ぶるいをみて、一発で、惚れてしまいました。そして、マイルチャンピオンのレースで、バンブーで、きまりと思った時、オグリ真骨頂!!根性の追い込みを見て、自然に私の手は拳を握りプルプル震え鳥肌がたっていました。そして、あの有馬記念私はオグリの闘志・根性は、まだ、終わってない!!と仲間内に豪語し馬券を握り観戦し最後の直線で、声が枯れるほど、オグリ!!オグリ!!と連呼していました。そして、レースが終わり、人目をはばからず、私の顔は真っ赤になり涙を流し泣きながら、仲間内に、オグリ・オグリと叫んでいました。
絶望と思えるとこからの追い込み、最後まで、諦めるなっと言っているような走り、私はオグリキャップが大好きです。
 
追伸>最後の有馬記念の馬券。拳に握り締めて熱くなっていたので、ぐちゃぐちゃになりJRAの人に怒られてしまいました。(笑
サクラローレル
大井
自分が初めて見たGIがサクラローレルが三冠馬ナリタブライアンを一瞬で抜き去り、突き放した春の天
皇賞でした。栃栗毛の綺麗な馬体とその強さですぐにファンになりました。現役中はもちろん引退して種牡馬に
なってからも応援しています。自分は競走馬の育成牧場で仕事をするようになり馬の調教を付けていました。そ
んな中、サクラローレル産駒の牝馬唯一の重賞勝ち馬シンコールビーが休養入りして来ることになりました。馬
体は黒鹿毛でローレルには似ていないけれど額の星がローレルに似ており、とっても愛嬌のあるいい馬でした。
調教も何度か付けさせてもらうこともありましたが、その走りは初めて現役オープン馬に跨ったこともあり、今
まで乗った中でも別格の乗り味でした。自分の大好きなサクラローレル。初めて跨ったオープン馬がローレルの
数少ない重賞ウイナー・・・ただの偶然かもしれないけれど、僕はこれを運命だと信じたいです。いつかサクラ
ローレルの所有し、自身の果たせなかったあの世界最高峰レースを獲りたいです。あくまで夢ですので叶わない
夢で終わるかもしれないでしょうが、一生夢見続けていたいと思ってます。以上サクラローレルを思い入れる理由でした。長文失礼しました。
シスタートウショウ
ロンシャン
15年前に私が競馬を始めた頃に魅了された牝馬です。
デビューから4連勝で桜花賞を制し、父である天馬トウショウボーイの遺伝子を受け継いだ天才少女。
でも、1番心に残っているのは初めて敗れたオークスでした。
落鉄したにも拘らず裸足で2400mを逃げ切ったイソ\ノルーブルが話題になったレースでしたが、私の視線は血統
的に距離が長いといわれながらも、4コーナー最後方から大外直線一気に懇親の末脚を繰り出し、ハナ差の2着ま
で詰め寄った同馬に釘付けになっていました。
この馬の末脚に魅入られたからこそ、その後も今に至るまで競馬の世界に嵌り続けているといっても過言ではありません。
グラスワンダー
ナド・アルシバ
私が出会った中でこれほどまでにドラマチックで、またその名の通り摩訶不思議(ワンダー)な魅力をもった
サラブレットはいない。
圧倒的なスピードと瞬発力で、他馬を圧倒し完全無欠だった2歳時。
骨折の憂き目に遭い、エルコンドルパサーに主役の座を譲った3歳春。
復帰するも、本来の走りから程遠く惨敗を喫した3歳秋2戦。
 
“早熟?”、“距離の壁?”、“燃え尽きた?”そんな思いのまま、迎えた有馬記念。
不安を払拭して余りある復活の完勝。
ここまででも相当にドラマチック。しかし、まだまだ続くワンダーな走り。
 
久々の短距離戦ながら、他馬を圧巻した京王杯SC。
絶好調で望んだ安田記念は鼻差の2着。
またしても不安がよぎる。本当に強いのか、と。
 
 宝塚記念当日、阪神競馬場に私はいた。 
他馬を威嚇するようなパドックでの馬体と歩様に惚れこんだ。直線あっという間にスペシャルウィークを置き
去りにし、ターフに脚を叩き付けて、砂埃をあげる独特の走法に鳥肌が立った。
 
体調万全ではないものの、プライドでねじ伏せた毎日王冠と有馬記念。
前年の劇走の影響か、本来の走りが戻らず精彩を欠き、惨敗を繰り返した5歳秋。そして、引退。
 
でも、まだまだ続くワンダー劇場。
初年度こそ期待ほど産駒が活躍しなかったが、2005年は参駒が対躍進。クラシック候補も誕生した。
 
グラスワンダー。彼には多くの称号が与えられている。“怪物”、“平成のグランプリホース”、“マルゼンスキーの再来”等。私からは“MDH”の称号を与えたい―MOST DRAMATIC HORSE!!

これからも感動を与え続けてくれ!!
サイレンススズカ
チャーチルダウンズ
他の馬は関係ない。まさに一人(1頭?)タイムアタックみたいなレースは圧巻!!!
シンボリインディ
エプソム
コワイ目つき。剥き出しの闘志。
前走比-12kg、生涯で最少の馬体重448kgで望んだNHKマイルカップ。
馬郡の中、最内を突き抜けたGI勝利!この闘志こそシンボリインディ。
2001年4月1日、自身最後のレースとなったダービー卿チャレンジ。
あの時も、目がぎらぎらして、首を上下にして闘志を出してたっけ。
それでも足りず、ゲートでバンバン蹴って蹴って暴\れたっけ。
その後・・・
ゲートから出てぺったり座り込んでしまった、シンボリインディ。
立ち上がったら右後ろ脚がぶらぶらしてた、シンボリインディ。
そんな彼を振りかえる事無く足早に立ち去った、岡部騎手。
涙をこらえている、私。
合掌。
そんなに突き抜けた闘志を見せなくてもよかったのに・・・。
闘志を受けついだ仔を見たかったな。
ライスシャワー
ナド・アルシバ
好きな馬でしたがレース中に怪我をして、そのまま注射で殺された時は物凄いショックでした!
ステージチャンプ
大井
初めて見たのが’93年菊花賞。あの足に見とれてファンになりました。
「菊花賞2着馬に活躍馬はいない」その当時の格言を打破してもらいたくて応援していました。
’95年の天皇賞(春)は蛯名騎手と一緒にテレビの前でガッツポーズしました・・・。
そこから競馬人生が始まったといっても過言ではないです。長生きしてね。
マヤノトップガン
ナド・アルシバ
結婚前に妻と初めてWINSに行った。ちょうど菊花賞のときで妻がなんとなく「トップガンがいい!」
と言い出し、見事に馬券的中。俺の馬券は惨敗。その後も妻はトップガンのレースのたびにTVの前で応援してた。そんな妻の楽しそうな笑顔が大好きだったから。
トウカイテイオー
アスコット
当初トウカイテイオーに関して最初それほどの興味を持っていませんでした。友人がとてもテイオーのことが好きなようでそれからファンになった経緯があります。
最近では某検索サイトなどでもG1になると過去のレース映像が見えたりするのでJCや有馬の時はなんどもみましたし、有馬記念なんかは実況を聞くたびにブルッと震えが来るほどです(笑)。G1を4勝していますがとにかく一年休養明けで望んだ有馬記念のインパクトが強くあんなことをやってのけるのは前にも後にもテイオーだけだと思います。
ナリタブライアン ナド・アルシバ 私が始めた競馬を見始めた年に現れ、目の前を駆け抜けていった馬だった。距離が伸びるごとに着差をひ
ろげる3冠レースと年末の有馬記念は背筋が震えたものだ。
 5歳(現4歳)時に故障をし戦列を離れることにはなったが天皇賞(秋)で復帰した。私はこの時、無事に戻
ってきたことをまず喜んだ。そのレースは過去最悪の12着という結果ではあったがブライアンが戻ってきたと
いう事が私には堪らなく刺激的だった。
 しかし、ジャパンカップ、有馬記念と敗戦を続けた。阪神大賞典もマヤノトップガンとの壮絶な叩き合いの末
勝利したが本来の力が戻ったとは言えないものだったと私は思った。その後の天皇賞(春)でサクラローレルに
負けたのは仕方がないといえば仕方がないだろう。
 後は知っての通り距離適正外と叩かれ出走した高松宮杯(現・高松宮記念)4着の後引退したのである。その
時はなんでこんなレースを使うんだろうと回りと同じ感想を持ったものでした。しかし、あれから数年たち競馬
について幾らかの知識を持つようになりあれは馬のためでは? と思うようになった。厩舎も復活の為にすべて
の手を尽くしたかったのだろう。それだけナリタブライアンは皆に愛されていたのだと思う。そして私も同馬を
好きになってしまった一人である。
 彼は胃破裂のため天に召されてしまったが、彼のような馬が再び現れることを私は切に願っている。
ナリタブライアン
エプソム
競馬ゲーム(クラッシックロード?)で競馬に興味を持った私が競馬に嵌まるきっかけとなった馬でした。
特に印象に残っているレースは晩年の阪神大章典です。
マヤノトップガンとの一騎打ちだったこのレースは3コーナーから完全に2頭の併走となり
直線苦しくなってきたトップガン騎乗の田原騎手がブライアン目の前でを威嚇するように左鞭を打ち、ブライア
ン騎乗の武騎手がやり返す。そのまま最後まで2頭だけのレースをしながらゴールへ・・・。
本当にしびれました。
この後の天皇賞、この2頭以外には勝ってほしくないと、当時としては結構\な金額を馬連1点勝負・・・。
負けても何故か納得していたのを覚えています。
5年位前の夏、珍しく休みが取れたので北海道にブライアンのお墓参りに行きました。(九州から一人旅)
帰る途中、たまたまオグリキャップの名前を見つけ、せっかくなので見学に寄りました。
ところが、オグリは遠くにいて目の前にいたのはトップガン。
偶然だなぁ感じながら、いろいろな事を思い出しずっとトップガンを眺めていました。
カツラギエース
アスコット
全盛時のシンボリルドルフとジャパンカップで勝負し、見事に逃げ切ったレースは、圧巻でした。またそ
の単勝馬券で大もうけ今でも忘れられない!
タマモクロス
ナドアルシバ
私が競馬好きになった時には引退していたのですが、タマモクロスの現役時代のレースと歩んだ道を見るたびに感動と興奮が蘇ります!まずは綺麗な芦毛の馬体。そして最後方から直線だけですべての馬を抜き去る怒濤の追い込み!そして、3歳春までは普通の馬で秋以降に才能\が開花する大器晩成のお手本と言うべき成長は素晴らしいの一言です!!そして、レースではオグリキャップと死闘を繰り広げた芦毛対決は私の中でのベストレースです!タマモクロスは私の中で永遠に一番の馬です!!
ミスターシービー
アスコット 私が競馬というものを、生まれたてはじめて見たのがミスターシービーが三冠目を獲得した第44回菊花賞。。
しかしそのレースが菊花賞であったのを知ったのは、実はごく最近のことでした。。
幼少のころ何気なくつけたテレビの画面には。。
一頭ぽつんと離れて走る馬がいました・・
やけに遅い馬だなぁぁ
と思ってみていましたが。。4コーナーから最後の直線での強烈な末足このゲームの言葉で言うならば圧倒的な強さを見せ付けました
いや。。見せ付けられました感じでした。
あの時のテレビの実況。ミスターシービー先頭!ミスターシービー先頭!
今でも耳に焼き付いております^^
その後たまたま見たジャパンカップまた一番後ろwなんて見ていましたが??そのままテレビに映らなくってw
幼心にあれれぇ??と思ったのも今でも覚えています^^
時を経て去年???一昨年?βの頃。。このゲームにたまたま出会いw
夢中になってwいろいろ調べて菊花賞。。ん?三冠??JP??ルドルフ??
ミスターシービーって。。すごいじゃんw
すごかったんじゃんwって幼少の頃の思い出がw
このゲームを通じてよりリアルに再現された感じです^^
シービークイーンを繁殖牝馬(高パラで)に入れてくださぁぁい^^
KP200pで買いますww
あくまで。。私の思い出です。。一部事実と異なることがあれば
ご了承くださいませ。。m駄文で失礼いたしました。。
ランニングゲイル
アスコット
私が彼を初めて知ったのはテレビで結果をだけを見た京都3歳S。
そのレースでナリタブライアンのレコードタイムを破ったとのことだった。
もともと競馬ゲーム育ちの私は血統うんぬんを語るのが大好きで、その父はランニングフリーというかつての名脇役。黒っぽい青鹿毛の美しさと父系のめずらしさに引かれて彼を応援しはじめた。
ファンとして望んだ初戦は朝日杯3歳S。斜行不利を受けながらも4着と健闘し、その実力をみせつけてくれた。判官びいきな私の性格もあいまって、私はさらに彼を応援するようになる。
若駒Sもエリモダンディーに屈して臨んだ弥生賞。
外から早めにまくって、素質馬オースミサンデーを最後まで近寄らせない力強さ。
それは一種ゲーム的強さだった。
このレースができていれば、皐月賞もこの馬の手中にあったと今でも思っている。
この馬にはG1を勝つだけの素質があった。騎手も超一流。
ただ運だけがなかった。
現在彼は乗馬となっており、子孫に夢を託せない状態である。
あれだけの強さもちながらも種牡馬としては生き残れない。
しかし、私的見地では血統的なおもしろさもかなり秘めている。
古い欧州の血統は、血の多様性という意味でも重要だと思う。
競馬伝説的に言えば、ミルリーフやニジンスキーといった因子が入っているのもおもしろい。
4代前にはボールドルーラーも含まれる。まさにこのゲーム向きの馬。
ということで、、ぜひこの馬くださいwと願うと同時に、この文章は競馬伝説における、ランニングゲイルの種牡馬入りを望むものでもある。
どうか(=´ー`)ノ ヨロシク
トウカイテイオー
ナドアルシバ
競馬が好きになったきっかけです
馬券を買い始めて間もないころでしたが、
ラストラン?の有馬記念で勝ったときのアナウンスに感動しました。
「トウカイテイオーだー」を連呼したあと「奇跡の復活。1年ぶりのレースを・・・(ここでアナウンサーが感極まっている感じでした)制しましたー」
トウカイテイオーの実績も知らず、そのときの競馬新聞の情報からはとても私には手が出せませんでしたが、単勝人気だけが異様に高かった(9倍くらい)です。
私はそのとき2着のビワハヤヒデから買ってまして、最後の直線は先に抜け出したビワハヤヒデをトウカイテイオーに抜かれたのですが、負けてもこういうレースを見れてよかったなあと思うことができました。
モデルテイオーでロマンのあるレースをこのゲームでもしてみたいです。
ミズノサーパス
ナドアルシバ
競馬を始めた頃に走っていた馬で、万馬券量産してくれました。安田康彦とのコンビで緑と白の勝負服が忘れられません。
ハーツクライ
ナド・アルシバ
ジャパンカップ2着という称号を持っていたにもかかわらず、有馬記念ではあまりマークされていなかったハーツクライ。いつもはしんがりから攻めるがこのレースはちがった。
馬自身の気持ちが出ているようでこの有馬記念のレースは何回みても感激した。
ケイエスミラクル
エプソム
ダイイチルビー、ダイタクヘリオスと共に短距離の3強時代を築くはずだったケイエスミラクル。
間違いなく短距離界の最強だった。第4コーナーでズルズルと下がって行ったあの時・・・
いまだに目に焼き付いています。
オグリキャップ
ナド・アルシバ
引退レースで優勝!最高でした。泣きました。それから競馬に夢中です。
ハーツクライ
エプソム
競馬は去年持つようになりました。きっかけはディープインパクトです。最初は単なるミーハーで始まったわけです。この馬を上回る日本馬はいないかなぁと思ってました。しかし去年のジャパンカップ見たときに衝撃が走りました。世界レコードが出たレースでハーツクライがいろんな海外馬や日本の古馬を抑えて2位に入ったのを見てハーツクライに惚れてしまいました。今ディープインパクトを上回れる馬はハーツクライしかいないのではないかと素人ながら思いました。案の定有馬ではディープを抑えて勝ちましたよね。
ディープが無敗4冠になれなかったのは残念ですが、そのディープを上回ったのが惚れたハーツクライだったので、嬉しかったです。そしてさらにファンになりました。
ただ残念だったのが、ディ−プの無敗4冠を阻止したということで世間的にハーツクライが悪者扱いされてしまったことです。むしろ褒め称えるべきだと思いますよ。無敗3冠馬の怪物を抑えたわけですから。
ハーツクライは今年は大ブレイクしてくれると信じています。今年は世界挑戦するみたいですけど去年のJCや有馬記念のようなレースをすれば絶対に通用すると思います。
競馬に興味を持って初めて惚れた馬です。特にライバルでなるであろうディープインパクトと死闘を演じてそして勝つレースをみたいです。
競馬のファン歴が短いなりに、思い入れを語らせていただきました。思いが伝わると嬉しいです^^
ハマノパレード
ロンシャン
突然私の視界から1頭の競争馬が消えてしまいました。
S48年高松宮杯、田島騎手を背にゴール寸前の事でしたそうハマノパレードです(落馬予\後不良)ハマノパレードは翌日にさくら肉として市場に出ていたことを、後日に成って知り涙が止めども無く流れ落ちました。
あぁハマノパレード苦しかった事でしょう。
でもあなたは決して無駄死ににはなっていません。
この事件がきっかけとなり安楽死が採用されたと聞き及んでいます
思ひ起こせばテンポイント、ホクトベガ、サイレンススズカ
幾多の名馬が去っていったことかしら、また涙が溢れてきました。
今はただ悲劇の起こらない事を願うばかりの今日この頃です。
スキーパラダイス
ナド・アルシバ
生まれて初めて競馬場に行って、自分で馬券を買ったのがスキーパラダイスでした。(結果は5着)いまだにハズレ馬券は記念に残してあります。ここが私の馬券(ハズレ運?)の原点です・・・。
アイネスフウジン
エプソム
この馬に思い入れを持ったのは、親や叔父の影響で競馬を好きになって間もない頃、叔父から「お前と同じ年に生まれた馬に、俺の1番好きな馬がいる。」と言われて1本のビデオを渡されたのがきっかけでした。そのビデオに映っていたのは第57回東京優駿の映像で、アイネスフウジンが当時のダービーレコードを1秒も上回る快記録で優勝した時のものでした。ダービーという大舞台でライアンやハクタイセイを抑えて見事に逃げ切ったのを見て、一気にこの馬に惹かれました。ゴール後に沸き起こったナカノコールに思わず感動してしまうほどで、当時自分の中でTOP3に入るほど好きな馬になりました。個人的にアイネスフウジンが勝ったレースが歴代のダービーで1番盛り上がっていたと思っています。観衆は東京競馬場の入場者レコードの19万6517人で、ダービーでの騎手コールもこのときが元祖と言われています。生で漆黒の馬体が颯爽と駆け抜けるところを見れなかったのは残念ですが、この馬のおかげでそれまで以上に競馬が好きになりました。世間でこの馬以上に評価を受けているダービー馬は何頭もいると思いますが、あの時ビデオで見たダービーが、ナリタブライアンやキングカメハメハやディープインパクトよりも衝撃的で、今でも忘れられません。アイネスフウジンは私の競馬の原点と言っても過言ではないでしょう。この馬に出会えたことが、今まで競馬を見てきた中で1番の思い出です。
イナリワン
ナド・アルシバ
特に競馬に興味があった訳でもない当時、他に観たいTVもないので競馬中継を何となく見ていた時に写っていたのはパドックを周回する馬達・・・。何が良くて何が悪いのかも解らず競馬のルールさえも良く知らない状態で目に付いた1頭の馬。それがイナリワンでした。パドックを周回する姿が目に付き、他の馬よりも良く見えた事を覚えています。遊び感覚で、「俺なら、この馬買うなぁ〜」と思っていたところ見事に1着でゴール。それがイナリワンの勝った有馬記念でした。もちろん、当時は有馬記念がどんなレースなのかなんて知りもしませんでしたが・・・。馬券も買えない子供時代の思い出です。
テンポイント
チャーチル
「亡霊の孫」、「栗毛の貴公子」、「流星の貴公子」、「悲運の名馬」。これほど多くの呼び名でファンに愛された馬がいただろうか? TTGと言われた世代の一角を担い、トウショウボーイ、グリーングラスとの激闘は今も語り継がれるところである。
学歴社会の影響か、最近の競馬界では「悲願のGI」や「グランドスラム」そして「三冠馬」といった競争成績に対する見出しがばかりが目立つようになった。
それを否定をするつもりはないが、どうもストーリー性に欠けていると感じてならない。
馬と馬が競い合うその姿こそが競馬の本来の姿なんだと思うし、単純明快な「打倒トウショウボーイ」という言葉のもとに多くのファンが集いエールを送った。
「タラレバ」を言い出したらキリがないと言うが、彼にはいくつもの「もしも」が付いて回り、それが一層ストーリー性を際立たせた。
「もし皐月賞でストライキが起きていなかったら?」「もしダービーで骨折していなかったら?」「もし日経新春杯にでていなかったら?」・・・「もし生きていたら?」
ロンシャンのターフに流星が走るシーンを、今も多くの競馬ファンは描き続けているだろう。
キーストン
チャーチルタウン
私はこの馬を知ったのは競馬を始めてからしばらくたってからのことでしょうか・・・。
正直なんとなく名前を知っているといった程度の馬でした。
あるときキーストンに関する記事と映像を見る機会があったのです。
それはとても悲しくも有り、美しい光景であったのを良く覚えています。
小柄なキーストンは阪神大章典 直線あと300mで左前脚が完全脱臼をして
立つことすら困難で激痛から狂ったように暴\れてもおかしくない状況でした。
鞍上の山本騎手も落馬で意識を失い倒れこんでいる中、キーストンが取った行動は残った3本の脚でゆくっりと気を失った山本騎手のもとに近づいていう驚きの光景でした。
キーストンは、山本騎手の顔を覗き込み、我が身ではなく山本騎手を気遣い
鼻先を山本騎手の顔にすり寄せました。
その後、意識が戻った山本騎手がキーストンの首を撫でている映像を見たときは
本当に心から涙が出てきました。
なぜキーストンが最後まで苦しいそぶりも見せず山本騎手を気遣ったのかは分かりません。
ですが、競馬は馬と人との深い絆で繋がれており信頼関係の下に成り立っていることを
誰しもが感じられる光景だったと思います。
そんな我が子を残すことも無く去った、悲運の名馬をゲームの中だけでも走らせ後世に残したいと思い応募しました。
ホワイトストーン
アスコット
芦毛の人気者戦績には恵まれませんでしたが、ファンは多い馬でしたね。
私もクラシック戦線に躍り出た時から買い続けて、外れてばかりw
酷使されすぎた面は否めないですが、とってもがんばりやさんでシービークロスの後継種牡馬としても期待されていましたね。
他界したので、今では過去の名馬にも上がってこない馬ですが、ゲーム内で復活できたら、私の厩舎で面倒見て上げたいですね^^
ナリタブライアン
ロンシャン
3馬身、5馬身、7馬身。未だに僕の中では『最強』だと思っています。
今は亡きナリタブライアンを復活させて下さい!
ナムラコクオー
アスコット
ナリタブライアンが圧倒的な力でダービーを達成した時の2番人気はこの馬でした。
そしてアンチブライアンな私はこの馬に打倒を強く祈っておりました。
そう、血統や実績ではまったく相手にもならない事は百も承知で・・・
結局ダービーは6着と完敗。その後、屈腱炎発症し長期休養となったことから、引退したかと思っていました。
しかし・・・2年近い休養を経てターフに復帰!
復帰後3戦目に重賞(プロキオンS)を制した時は競馬場まで応援に行きました。(もちろん単勝馬券を握り締めてw)
その後も引退せずに高知競馬へと転籍し、ライバル達の仔がデビューしても高知でひっそりと活躍を続けていました・・・
G?を勝った訳でもなく、良血でもなかったので種牡馬とはなれなかった様ですが、黒光りする引き締まった馬体を私は一生忘れる事はないでしょう。
タイテーム
チャーチルタウン
4白流星が、好きだった。
サマニベッピン
ロンシャン
初めての当たり馬券をプレゼントしてくれた競走馬です。
当時は、競馬を始めて日が浅く、競走馬の能力比較が出来なくて、競馬予想ソフトで買い目を決めていました。
データを入力して、はじき出された結果が、サマニベッピンでした。
競馬にあまり詳しくない時でしたので、素直に本命にして、馬連3点でまとめました。
レース当日は、アルバイト先のテレビで観戦していましたが、的中した瞬間、思わずガッツポーズをしていました。
初めての経験で凄く興奮して、サマニベッピンが、生涯忘れられない名前になりました。
その後も、この馬を見続けていましたが、ダンスパートナーを倒したりしていますので、かなり強かったんだと改めて感動していました。
半弟や子供たちも活躍していますので、これからも応援していきたいと思います。
ホクトベガ
エプソム
「ベガはベガでもホクトベガ」でおなじみホクトベガですが。
砂の女王というより加藤とコンビを組んでた頃のジリ脚時代の方が思い出深い。
エ女杯に勝ってから勝ちきれないレースが続き障害馬転向かといわれたり、夏は札幌ローカル回ったりとか。
とってもG1勝利馬とは思えない馬でした。
そして交流G1・砂の女王・ドバイで客死となるのですが。
思えばあのエリザベス女王杯の上位、ノースフライトはこの後マイルの女王として君臨。ベガは牝馬二冠を
引き下げて名牝として多くのG1馬を輩出。
ホクトベガは砂の女王というより行き遅れのキャリアOLみたいな趣がある馬でした。
カブラヤオー
アスコット
逃げ馬には、それぞれの美学があると思っていたが、この馬は別格だった。他馬が怖い。だから先頭を行く。
それだけの理由で、二冠圧勝。しかも、現在ですらありえないようなハイペースで押し切り。
怖いから、逃げたいから、という本能だけでの逃走劇、これぞ逃げ馬の真の姿だと思い、ますます逃げ馬にはまっていったのです。
イブキマイカグラ
ナド・アルシバ
3歳時に阪神3歳Sで勝ち、4歳では皐月賞トライアルの弥生賞で東の3歳チャンプのリンドシェーバーに勝った。
クラシック第1弾、皐月賞でのトウカイテイオーとの直接対決では直線前が壁になり、末脚不発で敗れる。
ダービートライアルのNHK杯では直線最後方から怒涛の追い込みで勝ちあがったが、再びトウカイテイオーとダービーで対戦する前に骨折でリタイヤ・・。
骨折完治後はトウカイテイオー不在の菊花賞でレオダーバンの2着。
古馬になってからは目立った活躍は無かったが、前々で競馬する器用な馬と違って、追い込み一辺倒の脚質、そして豪腕南井の手綱さばきは今でも強烈に記憶に残っています。
是非、このゲームの世界でクラシックを獲らせてみたいです。
オペックホース
チャーチルダウンズ

皐月賞2着、ダービー1着、一流馬たる成績。それなのにこの馬は「史上最弱のダービー馬」として語られることが納得できなかった。
確かにその後32連敗、飛越がうまいということで、障害レースに出る予定が、ダービー馬だから反対され実現されなかったと聞いています。

サニーブライアン
アスコット
人気はいらない。一番が欲しい。
多くの人がフロックと口を揃えた皐月賞。『ノーマークで逃げさせたから』、『ペースが向いたから』と。だが仮にも、【逃げ】宣言をしての【逃切り】勝利。
フロックの一言で片付けてしまうのは、とても言い訳惜しく感じました。
メジロブライト等の人気もあり、皐月賞時の評価は仕方が無いと思います。
しかし、日本ダービー6番目評価には心底驚愕しました。皐月賞馬がいくらなんでも舐められ過ぎだろ、と。(苦笑)
結果は皐月賞以上の着差にて快勝。府中の2400mを二の足を使い、力を証明してくれました。
しかしここにきても、某雑誌の記載では【ノーマーク】との評価。それ以来、その雑誌は購入していません。(笑)
残念ながら骨折の為、菊花賞への出走はかないませんでしたが血統背景を見ても、十分勝ち負け出来たのでは無いでしょうか。
ナリタブライアン以来6頭目の3冠馬はこの馬であっても不思議では無かったと思います。
『人気はいらない。一番が欲しい。』今でもあの時の名セリフが頭に残ります。
ステートジャガー
ロンシャン
ロンシャンのL1グランプリでもステートジャガー賞という形で提供させていただいてます。
ステートジャガーは元は地方馬で中央転厩後ミスターシービーに勝ち地方馬の底力を見せ付けましたが1番人気に押された宝塚記念で薬物のカフェインが検出され失格になってしまいました。
その後種牡馬になるも産駒に恵まれずに種牡馬登録抹消されますが抹消後にメルシーステージが活躍しメデタク種牡馬復活しました^^
私はメルシーステージのファンでその時に初めてステートジャガーの存在を知りました。
現役時代も種牡馬時代も波乱万丈な馬生を送ったステートジャガーにせめてゲーム内では立派な競争生活と種牡馬生活を送らさせてあげたいです!どんな形でも良いので是非復活させてあげて下さい!!
タケシバオー
大井
とにかく怪物!
旧4歳時は皐月賞2着、ダービー2着、その後もパっとしない成績が続く。
しかし年が明けて旧5歳時、初戦は2着だったもののその後8連勝。距離も万能で芝もダートも強くて驚きました。1年でレコード4つ更新。しかも天皇賞春を制した馬が1200mでレコードを出すという次元の違いを見せつけてくれました。
ここまで自在な馬もいるんだなと感動しました。
グラスワンダー
大井

デビュー後から次元の違う強さを見せつけてたグラスワンダー。
しかし怪我に悩まされていた。
1999年の第44回有馬記念。引退レースとなるスペシャルウィークとの一騎打ち。結果は写真判定で、的場騎手も尾形調教師も負けたと言っていた。しかしわずか4cmの差で勝利。そのときの尾形調教師の言葉で目が覚めました。
『こけてもこけても立ち上がってくる、人生そのもの。』
諦めない気持ちの大切さを感じました。

ツインターボ
アスコット
ツインターボに限らず、私は逃げ馬が好きです。
戦法も単純で一種類しかなく、不器用な馬なのかもしれません。
最後にバテて、フォームもバラバラで、馬群に飲み込まれていく姿は惨めかもしれません。
でも逃げ馬は勝負からは逃げたりはせず、常に持てる力を全て出し切って走ってくれます。
ツインターボはそういった意味で、いつでも全力を出し切っていました。
「逃げ馬は忘れた頃にやってくる」
逃げ馬が勝つのは運の要素も強いですが、いつも最後まで全力を出し切っているからこそ運を呼ぶのでしょう。
私もツインターボの頑張りを忘れないように、毎S彼の仔を種付けしています。
でも私のツインターボ産駒から運悪く脚質が逃げの馬がいないのは、私の頑張りが足りないとツインターボが言っているのかな・・・?
エンゼルカロ
アスコット
忘れもしないメジロドーベルが勝ったオールカマーの日。その時競馬場にいた私は、なんとなく新馬戦のパドックを見ていた。1番人気はその後重賞も勝つエイダイクイン。そのパドックでダントツの最下位人気の馬がいました。名前はディル。この馬こそがエンゼルカロの姉です。
 ディルが気になったのは、パドックで毎周回ごとに私の前で止まってこちらを振り返る仔でした。なんとなく気になり写真も撮ってレースを見ていたら、あらら可愛そうに・・・他の馬の大斜行であわや落馬。でもダントツ最下位だったのに2馬負かしました♪
 それから中1週。私はまた競馬場にたまたま行きました。そこに偶然ディルが☆しかも・・・また毎周回私の前で止まるのです。その時から運命を感じた私はディルが走る日は必ず競馬場に足を運ぶようになりました。しかし、結局は未勝利のまま終わってしました・・・
 翌年の1999年の函館3歳S。勝ったのは北海道競馬の地方馬エンゼルカロ。へー、地方馬なのにたいしたもんだ!と思った私。しかし血統の欄を見てビックリ・・・母ヤマフノーザリー。。。ななな、なんとディルの妹ではないですか!!!あの仔の妹が中央競馬で勝った!それも重賞!!!!
次のレースは札幌3歳S。人気は3番、着順も3番。いやいや、中央で十分通じる器ではないですか。そして次のレースはファンタジーS・・・北海道は行けなかった。しかし京都ならいける!!とファンタジーSを見にいざ京都へ!待ちどうしかったパドック。そしていよいよエンゼルカロとご対面。
いや、本当に感動しました。あのディルの妹がずいぶんとどうとうとパドックを周回。人気だってなかなかのものです。何枚写真撮ったかわからないぐらい撮りました。結果は・・・3着。まーまー。
その後はG1にも出走!そして4歳時には中央競馬の南井厩舎(当時開業したてのホヤホヤ)に転籍。南井厩舎の目玉としてちょっと注目されました。ただ私としては関西馬になってしまってちょっと残念。流石に毎回は見に行けないわけです。でも早熟だったのかその後はぱっとした成績は残せずでした。それでも何度か遠征で関東に来る時には見に行きました。この姉妹が私にとって競馬人生最高の思い出です。
ナリタタイシン
ナド・アルシバ
追い込みは最高で最強でした。天皇賞(春)での杉本さんの実況「外から外からナリタタイシン!」2着に終わりましたが競馬を始めたての私には強烈なイメージが残ってます。ビワハヤヒデも強かったけどやっぱり私はナリタタイシンです。
サンエイサンキュー
ロンシャン

一度も休養もなく淡々と走り続けた、名牝。
最後のRとなった、有馬記念では、ラストの直線で骨折、競争中止になってしまいました。
その後、奇跡的に怪我を克服・・でも、ターフには戻って来られず・・
満身創痍、波瀾万丈の本当に素晴らしい・・名牝でした。
あの、札幌記念は圧巻でした。

ステージチャンプ
チャーチルダウンズ
葬り去られる長距離の血…500万下ながら弥生賞3着に入り、その後は3強馬と共にクラシック路線に!大好きだったダイナアクトレスの初仔ということもあり、追いかけつづけ、ついに菊花賞でその素質を開花させ3強の牙城を崩し、馬券を取らせてもらいました。
その後も引退まで追いかけつづけましたが、やはり最も印象に残るのは天皇賞春…まだ知名度の低かった蛯名騎手のゴール直後のガッツポーズ…今思えばこのレースを期に蛯名騎手は一皮むけた気もするなぁ…
このときほどライスシャワーを憎んだことはありませんでした。
引退後ノーザーンファームに会いに行き、感動の対面を果たした後、掲示版を見ると『セン馬』の文字が…やはり近代競馬はスピード競馬なんだなぁと痛感した瞬間でした…
メジロラモーヌ
大井
競走馬としては超一流だが繁殖牝馬としては成功しなかっ た。
何とかこのゲーム内でメジロラモーヌの仔を活躍させたい!
ハシルショウグン
大井
大井競馬を語る上では欠かせない1頭です。
シンボリクリスエス
アスコット
成績8-2-4-1で圧倒的人気に応え、
天皇賞・有馬記念とレコードを2度も塗り替えた!!
自分もこの馬に随分お世話になったから
ダイタクヘリオス
ロンシャン
様々な意味で最強のマイラーだから。ついでにダイイチルビーもください。
タケノベルベット
エプソム
単勝馬券を取ったことと、そのころの牝馬としては珍しく長距離ローテーションで結果をそれなりに残したことです。
アドマイヤコジーン
エプソム
故障もあり3歳(旧齢)王者の面影すら見えなかった5歳(旧齢と現齢)の2年間。
試行錯誤し活路を見出すためにダートにも挑戦したりと苦労の日々。
そんな6歳初戦、東京新聞杯。なんという運命か、某ジョッキーとの問題を起こしていた後藤騎手に乗り替わると見事復活V。
阪急杯で連勝、続く高松宮記念でも2着、そして向かえた安田記念。激戦を見事制しなんと3年半年ぶりのG1勝利!!3歳王者アドマイヤコジーンの劇的復活と、いつもはインタビューで笑いをとっている後藤騎手の号泣の姿。この1レースで2つもの感動があったためか、僕自身初めて競馬で泣いたレースでもありました。
ミドリマキバオー
大井
漫画の世界のお馬さんですが、小さい体から繰り出される瞬発力。
白い馬体。とても感動しました。是非再現してやってください。
グラスワンダー
大井
不屈の天才馬。2歳時はとんでもない強さに魅了され、3・4歳時には不死鳥のように復活劇を見せてくれて感動を与えてくれた。ここ最近で朝日杯を勝ち、3歳・4歳でG1勝ちしたのはこの馬だけ。又、距離も1400〜2500mmと幅広く活躍。ここ10年でこの馬こそ最強馬だと思っています!
トウカイテイオー
ナド・アルシバ
2冠達成後ケガで成績が悪くなりもう駄目だと言われ主戦ジョッキー岡部さんもビワハヤヒデに騎乗した引退レースの有馬記念で見事に優勝して自分に最後の夢をみせてくれた名馬だから
グラスワンダー
エプソム
朝日杯で魅せたあの強さが忘れられない。
栄光に満ち溢れた(現)2歳時から一転した悪夢の骨折劇。そして復活の毎日王冠では惨敗し、続くアルゼンチンも・・・。誰もが『終わった』と思わざるを得ない状況で、奇跡の勝利を果たした有馬記念は感動の一言!
現役時代は決して順調とはいえなかっただろう。しかしこの馬は最強とも言われる世代をグランプリ3連覇という歴史的な勝利で魅せてくれました。エルコンやスペシャルなど素晴らしい馬が活躍した時代ですが、私は『怪物』と呼ばれたこの馬こそ最強と信じて疑いません。
セキテイリュウオー
ナドアルシバ
天皇賞秋に2年連続2着です。両方とも東京競馬場で見ていました。1回目は1人気ライスシャワーで勝ったのはヤマニンゼファー。
ヤマニンゼファーはその年の安田記念を勝っていました。中段からうまく進出し直線はヤマニンゼファーとの一騎打ち。
惜しくも敗れましたがあの直線の一騎打ちは心に残っています。馬券も頂きました^^
2回目は1人気ビワハヤヒデで勝ったのはネーハイシーザー。ネーハイは毎日王冠を勝ち絶好調、対するセキテイリュウオーは前年ほどの勢いはなく。。しかし、、ネーハイには逃げ切られましたがビワを抑えて2着は確保。この時はセキテイ流しでしたがネーハイを切っていたので馬券ははずしました;;
マイナーかもしれませんが心に残る1頭です^^
トウカイテイオー
ナドアルシバ
何度も故障しながらその度に不死鳥のごとく甦ったトウカイテイオー。
私にとって彼は、生きる希望でした。
当時病弱で入退院を繰り返していた私は、ターフを駆ける彼の姿に自分を重ねていました。彼が復活を遂げる度、どれほど勇気付けられたかわかりません。ガラスの脚と言われ、それでもなお生命を燃やしながら走る彼の姿はいつも輝いて見えました。
1993年12月26日 中山競馬場。
病気を克服した私は、生まれて初めて「奇跡」を目のあたりにしました。鮮やかに目の前を駆け抜けた彼の姿に子供ながらに涙したこと、今でも鮮明に憶えています。
勇気と希望、そして、競馬の素晴らしさを教えてくれたトウカイテイオー。ありがとう。
ディープインパクト
ロンシャン
私はまだ馬券を買えるほどの年齢にはなっていませんが小さいころから何度か親に連れられて競馬場にいったことがあります。
競馬に興味を持ち始めたのは3年ほど前ぐらいです。ここ数年では三冠馬という偉大な競走馬がでていなかったので是非生きているうちに一度三冠馬を見たいと思っていました。
すると大変なことでそんな思いを抱き始めた、数年に早くも三冠馬が誕生してしまったのです。それがディープインパクトでした。
若駒Sで彼のレースを見たときは鳥肌がたちました。馬なりの余裕であんなにも差をつけてしまうのだから・・・。そのときは確信しました。この馬はクラシックレースの主役になると。
彼はそんな関係者、マスコミ、競馬ファンの期待に応えて見事三冠を達成してくれました。
この大きな重圧の中で闘ってきたディープインパクトは素晴らしいと思いました。
有馬記念では2着に敗れましたが、今年は是非借りを返してほしいと思います。
またいつかこんな素晴らしい馬に巡り会えたらいいと思います。
タイキシャトル
チャーチルダウンズ

馬の美しさと強さを持ち合わせた馬だった。強さ、そして誇り。しかし、ダイヤの原石だって磨かねば光ることはできない。彼が追い求めたのは磨き上げた自分の姿だったのか。それとも自分に携わった人たちへの・・・・
みなさま、お久しぶりです、私的名馬列伝6回目は近年最強マイラータイキシャトル。海外G1制覇が光る馬ですが、厩舎や関係者の努力などこれだけ強い馬でも苦労が絶えないのだと、実感させられた馬でもあります。
タイキシャトルはケンタッキーファームで生まれ、アイルランドに移りその後日本の藤沢厩舎に移された。血統的に見ると日本で大成功を収めているヘイロー系。そして、日本のトップトレーナー藤沢厩舎、馬主さんは大樹ファーム。折り紙つきのお坊ちゃんである。しかし、デビューから順風満帆というわけではなく、ゲート試験で再三落ち、デビューが遅くなったという経緯も持っている。○外のマイラーとなればNHK参るカップを目指すのが至極当たり前のようだが、この馬それができなかった。しかしそれが「馬に無理をさせない」という藤沢厩舎らしいところでもある。デビュー後はすんなりと3連勝。4戦目の菩提樹ステークスでは二着に敗れるがそのとき勝ったのは、テンザンストームという牝馬。「女の子追っかけて負けたんじゃ・・・」と突っ込みたくなるような一戦だった。しかし、周りがこんな冗談を言っていられるのはここまでだった。
次にダートの1600Mユニコーンステークスを快勝、さらにスワンステークスも返す刀で勝つと、二番人気でG1マイルCSへ駒を進めた。この年は安田記念馬タイキブリザードが不在で混戦模様となり、事実一番人気は武豊騎手鞍上のスピード
ワールドであった。レースはキョウエイマーチが引っ張る展開。速い流れのまま直線へ。初めてのG1にもかかわらず、タイキシャトルはいつもどおり好位から、あっさり抜け出して見せた。あまりにあっさり抜け出したため、逃げていたてキョウエイマーチを交わし直線に入ったところで実況は「キョウエイマーチ脚が上がったか」と洩らしている。しかし、キョウエイマーチは二着に粘りこみ非常に強い競馬をした。ただ、相手が悪かったとしか言いようがない。事実そのあとスプリンターズステークスで岡部騎手を鞍上にもどし、同じように好意を追走。そしてあっさり抜け出す。好スタートから、無理なく好位を進み、直線で前に並び、前の馬と馬体を合わせ、坂上でもう一伸びして勝つ。近代競馬のお手本のような勝ち方。それは精密な機械、いや走る芸術品のようなもので大きな栗毛をなびかせ走るその姿とともに、チャンピオンとしての誇りも垣間見せてくれた。
年明け。1200Mになった高松宮記念をパスして京王灰SCに出走したタイキシャトルはまたも危なげない走りを見せてくれた。そして、陣営が海外遠征をぶちあけた安田記念。初めての不良馬場。タイキシャトルはいつもより道中やや後ろを走った。そして直線。坂を上ったところから瞬く間に差を縮めると最後はまたしても、圧勝。
その後、日本最強の金看板を背に、タイキシャトルはフランスへと赴く。フランスでも格調高いとされる、ジャックルマロワ賞への出走が決まっていたからだ。それは国際派で知られる岡部騎手の長年の夢でもあっただろう。
ちなみにレース前の雑談で横山騎手が「岡部さんがのれなかったら俺が乗る」と冗談を言うと、横にいた武騎手が「じゃ、ノリさん(横山騎手)がのれなくなったら僕に乗せてください」とかぶせるととどめはペリエ騎手「ユタカが乗れなくなったら俺が乗るよ」なんて会話があったらしい。さてそんな逸話をよそにタイキシャトルはこのレースでも日本と同じ好位を追走。前の馬と並び、最後もう一伸びして勝利をもぎ取った。日本と同じ勝ち方。しかし、芝だけでなく環境そのものがまったく違う異国の地で、「同じように走る」ことが如何に難しいか
競馬を少しでもかじったものならわかるだろう。しかし彼はここでも強く、そして美しかった。
その後国内2戦で引退の決まっていたタイキシャトルは連覇をかけたマイルCSで、寒気のするくらいの強さを見せてくれる。いつもどおり好位につけ、直線でももったまま、岡部騎手が追い出すとそのままスッとほかの馬を突き放す。「切れる」とか「早い」とかそんな表\現は間違っている。「美しく、そして強い」それは「強さ」とはなにかそれを教えられたような走りだった。その美しさは、ただ単に大きな栗毛の馬体というだけでなく、デビューまで苦労をかけた「原石」がもっとも光り輝いていた、「美しさ」でもあり、彼の集大成でもあった。
そして、それは鞍上が岡部騎手ということもあいまって、ある一頭の名馬を思い出させてくれた。シンボリルドルフ。競馬史上最多の7つのG1を勝ち、史上最強の呼び声も高い馬である。岡部騎手がデビューから手綱を取り、そのレースは好意追走から、直線すっと抜け出すというもの。どの馬も、この勝ち方がロスもなくリスクも少ないはずである。しかしながら、こういった競馬ができる馬は稀である。気性はもちろんスタートセンスや馬の癖など、すべてを兼ね備えた馬じゃないとこうはならないのである。
話をタイキシャトルに戻そう。ではタイキシャトルは兼ねそなえていたのか?答えはYESでもありNOでもある。冒頭で触れたようにゲート再審査にもなった馬である。結果としてこういう競馬ができるようになったのは、携わってきたすべての人が、この「原石」をすこしずつ磨いていったからではないか。
ラストランでタイキシャトルは負ける。いつもどおり直線までは好位。
そこから馬体をあわせる。最後手前を変えなかったことが敗北の原因なのだが、それは決して今までの誇りを無にするものではなく、最後まで美しいものであった。
今タイキシャトルは種馬として余生を送っている。すでにG1ウイナーも送り出し、一流の種馬になっている。しかし、あれだけの馬が再び現れるだろうか?
ただ強いだけでなく、美しく、誇り高き馬が。実際には難しいと思う。

ミスオンワード
大井
ミスオンワードの父Hard Source、母ホールドタイトは輸入繁殖牝馬。
ミスオンワードのオーナーは、樫山純三氏でアパレルメーカー「オンワード樫山」の創業者としても有名。ミスオンワードは京都3歳Sなど、デビュー4連勝を飾りこの年の最優秀2歳牝馬に選ばれた。桜花賞では単勝1.0倍の元返しという圧倒的1番人気で快勝し、オークスも快勝。無傷の8連勝で牝馬クラシック二冠を達成した名牝である。
無敗での牝馬二冠というのは未だにミスオンワード唯一頭である。
その後、ダービー・菊花賞・天皇賞・有馬記念等に挑戦したが敗退している。
特に、ダービーではファンの熱望により連闘による出走で大敗したが、ベストの状態で出走していればどうなっていたかわからなかったと思う。
※私は、競馬伝説を通して競馬を見るようになり思い入れのある馬はいませんが、インターネット等で調べているうちにこの牝馬に興味が湧きゲーム上で走らせてみたいと思うようになりました。趣旨に合った投稿ではありませんがお許し下さい。
エアグルーヴ
ロンシャン

秋華賞で骨折し、骨折休養明けにも関わらずマーメードSを快勝し、牡馬相手となった札幌記念も圧勝。迎えた天皇賞ではバブルガムフェローとの直線の叩きあいを制止て優勝。この天皇賞でのエアグルーヴの強さに衝撃を覚えましたが、続くJC、有馬でも好走し最強牝馬とも思える活躍。さらには産駒もGを勝利し、母としても優秀な仔をターフに送り出している素晴らしい牝馬。

メジロデュレン
アスコット
メジロデュレン 戦績(21戦6勝)獲得重賞 有馬記念 菊花賞

メジロデュレンへの思い入れ
「マックイーンは知っているがデュレン何て知らない。」
そう言う競馬ファンも増えている事でしょう。メジロオーロラに初めて種付けする際、天皇賞を勝てる馬として生産されたのがメジロデュレンだった。
メジロラモーヌが3冠牝馬になった86年に偶然にもラモーヌのエリザベス女王杯と同じ6枠13番に入ったデュレンは波乱の菊花賞に勝ち、歴史の長いメジロ牧場に初の牡馬クラシックの栄冠をもたらした。
しかし、ラモーヌが有馬記念に出走するため菊花賞馬でありながら有馬記念には出る事は許されなかった。長期休養の後凡走が続いたが、翌87年の有馬記念に出走し10番人気ながらレースを制している。しかし、この有馬記念は「デュレンが勝った有馬記念」とは言われず「サクラスターオーが散った有馬記念」として語りつがれている。
G?を2度勝っていても人々から正当に評価されることは無かった。引退したデュレンと入れ変わるようにデビューした半弟マックイーンの戦績は言うまでも無い。
競走馬としては輝かしい戦績を残した兄弟ではあるが、兄のデュレンはあまりにも不遇である。メジロデュレンの血は残らないであろうが、記憶にはいつまでも残すべきであろう。
マックイーンの兄としてでは無く、G? 2勝馬メジロデュレンとして...

グラスワンダー
エプソム

初めて見た印象は「この馬走る気あるのか?」朝日杯のパドックでした。
結果はあのレコード勝利。その後、骨折で4歳の春は休養。
復帰後の毎日王冠、アルゼンチン共和国杯はまさかの惨敗。この時のパドックは何かが違った。変と言うより普通の馬だった。そしてあの有馬記念。
パドックを見て、「あれっ、朝日杯の時と一緒だ。」ひょっとしてと単勝で勝負。
結果、メジロブライトを半馬身おさえて復活勝利を果たした。
テレビの前で叫んだのは、この時が初めてでした。
その後、グランプリ4連覇に挑んだ宝塚記念での故障により引退したが、残念なのは、エルコンドルパサーとベストの状態で戦えなかったことか。
2頭の走るNHKマイルCが見たかった。

メンデス
大井
葦毛の怪物メンデスの仔は多くの名レースを演出しました
マチカネキララ
ロンシャン
去年の神戸新聞杯(G2)では惜しくも4着になりましたが、その後着実に勝ち星を上げてきています、同世代にディープという怪物がいますが、年が替わって間違いなく、この馬は今年、ブレイクする馬です。まあ、今年、この馬を観ててください。強くてびっくりしますよ。
シャダイソフィア
エプソム
桜花賞を勝った後、ダービーに挑戦した小柄な牝馬。
6才のスワンステークスで、予\後不良になるまで、ずっと応援していた。
どんな子が生まれていたのか?今でも、一番綺麗な馬だった。
ディープインパクト
ナド・アルシバ
ディープの走りはまるでペガサスです。あの馬は日本の宝です。
そんな日本の宝を、僕は手に入れたいのですが今の資金ではセリへの参加は無理です。この場がラストチャンスです。
どうか運営チームの皆様、未だに重賞すら勝てぬ僕にディープのモデル馬をお与え下さい。運営チームに慈悲の心があることを信じて、、、。
イソノルーブル
アスコット
当時 北海道在住の私は いつも夏競馬を 函館と札幌で観戦するのが とても楽しみでした。その中で一人の騎手と出会いました。当時若手では5本の指に入る松永幹夫くんでした。親しくなり飲みに行ったりよく食事にもいきました。
その年の札幌記念メジロパーマーに騎乗し見事に勝利!レース後焼肉やで、記念のぬいぐるみをいただいたのを 憶えています。知り合ってから初の重賞制覇でした。
その後幹夫君も着実に実力をつけ、ある牝馬と出会います。イソノルーブル。小さな牧場でうまれた雑草馬でした。がデビュー後連勝し迎えた桜花賞では1番人気での出走です。日頃から 早くG1を獲りたいと願っていた幹夫君にとって、絶好のチャンスがめぐってきました。私も単勝馬券をたんまりと買いWINDSで観戦!しかし悲劇が!なんと 落鉄したままでの出走となり あえなく5着。
その晩の幹夫君からの電話に かける言葉が見つかりませんでした。俺はG1に縁がないのかな? そう呟いた彼の言葉にルーブルよ必ずオークスで勝ってくれ!そう願う私でした。しかし牝馬で東京2400を逃げきるのは至難の業。祈る様な気持ちでオークスを迎えました。人気は落ちていました。 スタート!いつもどうりハナに立ちルーブルは闘志いっぱいに駆けていました。
ライバルのヤマノカサブランカは後方から一気の脚!がんばれもう少しだ!2頭並んでのゴールでした。勝っててくれ!写真判定の末は鼻差の勝利!私は感動で、涙があふれました。初G1を獲った幹夫君に一言 おめでとうと伝えるのが精一杯でした。
翌年京都へ遊びに行った私を迎えてくれたのは、オークスの表彰式で幹夫君が乗っていた 紅いスポーツカーでした。今は、幹夫君とも縁がありませんが、彼が活躍するたびに、イソノルーブルを思い出します。私に初めて感動をくれた名牝です。
サンエイサンキュー
ロンシャン
生涯成績17戦5勝2着5回 獲得重賞 阪神3歳牝馬(G1)2着、オークス(G1)2着クイーンステークス(G3)、札幌記念(G3)、サファイアステークス(G3)
以上のように成績自体はたいしたことはないと思いますが、阪神3歳牝馬では怪我を負いながら2着に入り、根性娘ともいわれました。小さな馬体(420−438kg)でがんばっておりました。桜花賞では2番人気になりながら7着と惨敗、オークスでは田原騎手とかわりもう少しでG1タイトルがというところで2着。このあとからこの馬に対して運命の歯車が狂いはじめたかもしれません。
通常、夏場は休養にはいるのですが、この馬は走りつづけます。札幌記念では古馬の牡馬を倒す見事な勝利です。ここでも休養にはいることなく走り続けてしまい。エリザベス女王杯直前で騎手とオーナーサイドや厩舎や新聞関係者といざこざがおこり、残念ながら4回目のG1チャレンジでも5着。ここで完全に騎手が休養をすすめますが次のレースに挑むことになり田原騎手は降りました。
放牧にだされることなく1年以上走り続けがんばっていました。最後のレースは有馬記念、最終コーナーで骨折、競争中止普通なら予\後不良になるところ、オーナーの希望で延命されますが5度の手術にも耐え元気になり、繁殖牝馬になれるようまがった足の治療に入りましたが手術終了五日後になくなってしまいました。
子供を楽しみにしていただけに残念でした。ゲームの中だけでもぜひとも彼女や子供の活躍が見てみたいです。番外、自分の記憶が確かなら馬連導入した際の最初の万馬券はこの馬が立役者だったと思います。函館2歳ステークス(G3)12番人気で2着、17,100円の払い戻しです。
トウカイテイオー
大井
奇跡の復活勝利!!
無傷のダービー制覇で、父シンボリルドルフを思わせる強さを見せつけながら、骨折、骨折で休養が多かった><帝王。なんと言っても有馬記念で負けた後骨折で1年のブランクがあったにもかかわらず、しかも叩きなしでビワハヤヒデに競り勝った有馬記念!
皇帝が帝王に乗り移ったかのように・・・。そして帝王に思い入れが強かった・・・勝たせてやりたかった・・田原成貴騎手の男泣きに感動してテレビの前でもらい泣きしました・・・T T
(1万円の馬券を握りしめていたのは、別にして・・・)
今でもあのシーンを見ると感動して涙が出てきます。
余談ですが馬連で3290円付きましたo(^o^)/"
ライスシャワー
大井
ミホノブルボンの三冠阻止、メジロマックイーンの春天三連覇阻止とどちらかといえば”悪役”だったわけですが・・。その溢れんばかりのスタミナには似合わない小さな体、なんとなく応援してた春天二回目制覇の時、杉本さんが「やはりこの馬は強いのか」といった時、その横にブルボンやマックイーンの姿を見たのは僕だけではないはず・・・。そして初めての主役といってもいい淀での宝塚記念での壮絶な最後に合掌・・・「淀に咲き淀に散った」最強の刺客・・・馬券的には泣かされました ^^;
グラスワンダー
チャーチルダウンズ
実にひ弱な馬だった。この馬がクラシック路線を走っていたらどうなっただろう?
あの有馬連覇、宝塚を見る度に夢想したものだ。
2000年日経賞、中山で実物を見た時はデブデブだった。それでも信じた。
最後の宝塚。ピークは過ぎていたのは明らかだったが、それでも信じたものだ。
そしてやっぱり夢想した。この馬がクラシックを走っていたら。
それを実現したい。是非ともグラスワンダーにクラシックを走らせたい。
ライスシャワー
大井
三冠阻止
ルドルフ以来の無敗三冠馬誕生かと騒がれたミホノブルボン。
もしライスシャワーと言う馬がいなければブルボンの偉業はルドルフ同様に今でも語り継がれていたかもしれません。私も当時、ブルボンの三冠制覇はかなり高いのではと思っていました。ただ、芙蓉Sで始めてライスシャワーを見て以来、その魅力に引かれ追い続けてきた私。必ず今度こそやってくれると信じ、菊花賞のレースを見守りました。ブルボンとの出会いはスプリングSでした。ライスは芙蓉S後に骨折休養を余儀なくされ、復帰戦がブルボンとの初対決でした。流石にプラス体重で結果は大差の4着。その後皐月賞、ダービー、休養明けの京都新聞杯と全ての対決においても惜敗。ただ、距離が伸びればチャンスはあるのではないかと信じ菊花賞のレースを静かに見守っていました。直線でブルボンが先頭に立った時は”ヤバイ逃げられる”と思い諦めそうになった瞬間、外からライスが見事な鬼脚でに差し切ってくれた時は鳥肌が立った事を今でも鮮明に覚えています。ブルボンの3冠阻止をした事である意味、悪役扱いもされた馬ではありますが、私にとっては忘れられない馬です。
メジロブライト
チャーチルダウンズ
生粋のステイヤーで追い込み脚質限定の不器用な馬、メジロブライト。
3歳クラシック戦線では人気を集めながらもあと1歩と善戦止まり。しかし、3歳冬からステイヤーズS、AJC杯、阪神大章典と3連勝し、ステイヤーとして開眼しその勢いのまま天皇賞春を制覇!メジロ牧場が伝統的に最も重視するG1で、また彼の父のメジロライアンが制覇を成し遂げることができなかったレースなだけに感慨深かった。
その後、サイレンススズカ、グラスワンダー、スペシャルウィークら新世代の強豪馬にあと1歩届かずの善戦が再び続く。自分からレースを作れない追い込み脚質、ゲート下手、ステイヤー、その後、種牡馬として活躍が期待されるも一昨年、10歳という若さでの急死、最後まで不器用で悲運な馬だった。それだけにどの名馬よりも応援せずにはいられなかったのかもしれない。たった4世代に渡る少ない産駒ではあるが是非、アンバーシャダイ、メジロライアン、メジロブライトと受け継がれた血を繋いでくれる馬が出てきてほしいものです。
アグネスタキオン
ナドアルシバ
正直言うと自分の最高の名馬は2頭いて、アグネスタキオン(以下タキオン)とサイレンススズカ(以下スズカ)です。
今回タキオンを選んだのはスズカを語ると必ず泣いてしまうのでw
あの4コーナーでの悲劇が勝手に脳裏に蘇ってしまいます。
スズカは私のヒーロー、タキオンは私の英雄・・・タキオンを初めて知ったのは某競馬雑誌のPOGでした。短評の中に「兄(フライト)より体が一回り大きく、豪快な印象は受けるもののダービー馬の兄と比べるのは厳しいだろう」とありました。
ダービー馬の弟ということで指名しようかと思っていたのですが、このコメントを見てフサイチコンルドの半弟のボーンキング(以下ボーン)を指名してしまいました。(他の雑誌に「フライトよりその下はもっと凄い」との吉田照哉氏のコメントがあったのを知ったのは葉書を送った後でしたw)
しかし、タキオンを再び巡り合うまでに時間はかからず我が指名馬のボーンキングといきなり初戦の新場戦で顔を合わせたのです。
このレースには他に名牝ロジータの息子リブロードキャスト、ラムタラ産駆で後に富士Sを勝つメイショウラムセス、セレクトセールの1番馬で武豊騎乗のアドマイヤセレクトなど豪華な顔ぶれが揃っていました。もちろんボーンの応援をしていたのですが、POGで指名しなかったタキオンのことも気になっていました。
レースは超スローペースで流れ2頭ともに決して有利な流れではありませんでした。
道中も仲良く集団後方につけていた2頭ですが、反応の悪いボーンを横目にタキオンは反応鋭く抜け出し上がりを33秒台マークしあっさりと勝ってしまいました。この時からボーンを指名したのを忘れタキオンが自分のPOG馬かのごとく応援していましたw
そんな新馬戦に続く2戦目にはラジオたんぱ杯が選ばれた。2戦連続レコード勝ちのクロフネ、札幌王者のジャングルポケット(以下ジャンポケ)を相手にするだけに「せめて2着にくれば・・・」といった気持ちでTV観戦をしました。
が、蓋を開けてみれば2分0秒8のコースレコード、初戦からじつに3秒5もタイムを短縮してみせたのです。
年明け初戦のドロドロの不良馬場で行われた弥生賞はタキオンに恐れをなしてか8頭しか集まらず、当然のように楽勝しました。しかしここから微妙なズレが生じ始めたのです。
弥生賞からの帰り、タキオンは断固として馬運車へ乗り込もうしなかったし、皐月賞前の最終追い切りではウッドチップコースにどうしても入ろうとしなかったため、急遽坂路コースで追われた。こうして向かえた皐月賞。単賞1.3倍の圧倒的に支持された私の英雄はゲートをむずがり場内を沸かせていた。もっとも私にとっては予\想された事態でもあったし、目隠しによりアッサリとゲートに収まったのである。
いざ扉が開くとタキオンは悠然と好位を追走した。最大のライバルと目していたジャンポケはスタート直後に躓く不利があり、結局これが2着ダンツフレームとの半馬身差につながったと考えている。タキオンはというと・・・堂々の横綱相撲でこの2分後に勝利の美酒に酔いしれることとなる。
皐月賞後、私は正直3冠を夢見た。というよりも何か確信めいたものがピンときたのです。
けれど、既知のとおり私の英雄は屈腱炎という名の病魔に冒されていたのだ。
これは何事にも共通することと思うのだが「素晴らしい才能\との巡り合い」が我々競馬ファンを引き付ける大きなファクターの1つであると思う。どんなに天邪鬼なファンでも心のどこかにはスーパーホース願望を秘めている。
タキオンはファンの待ち望んだ英雄であった。カリスマであった。志半ばでターフを去った後もジャンポケやクロフネの活躍でより一層の輝きを放つこととなった。
当時各国の競馬関係者に「世界最強の3歳は日本にいる」とまで言われた英雄は、もし無事だったならどこまで我々を連れて行ってくれたのだろうか。
この世で最速である光速さえも彼ならば超えることができたのではないだろうか・・・。
以上で私の思い入れを終わります。
誤字・脱字など至らない点があるかもしれませんがご容赦を。
サイレンススズカ
ロンシャン
"初めてこのサイレンススズカを見たのは平成9年の皐月賞トライアルの弥生賞。中学生ながらその日は何
故か家に居てボーっとテレビを見てたら、1頭だけゲートをくぐって出てきた馬を見て、こんな馬もいるんだな
ぁ思った。印象に残っていたのでそのあともサイレンススズカが出ているレースを何度か見た。そうしてるうち
に少しずつ愛着も湧きだして、あまり強くない(ダービー出てるからすごいってことに今になって思ってます^^;
)けど綺麗な栗毛の馬だな〜と思うようになった。この馬のすごさを思い知ったのは平成十\年、武豊(前年度の
香港からだったかも)が鞍乗したときから。ここから前のめりの大逃亡が始まったと思う、他馬を寄せ付けない
逃げの逃げ大逃げを打って出ると他の馬は全く違う次元のスピードについてこれず一頭抜けて逃げ切る。そこま
で逃げなくても誰も追いついてこないのにといわんばかりの逃げが、そのころ何もやる気のなかった自分に失敗
なんか恐れない前のめりを教えてくれた。最後こそ大逃げを打って異次元のスピードで走っている時に脚がそれ
に耐え切れずに未来をなくしてしまったけど、最後まで自分を貫いたすばらしい馬だと思う。でも今思い返すと
、この馬の血を後世に残せなかったことはサイレンススズカのファンである私には残念で仕方ない・・・。短い
人生だけどぶっとく生き抜いたサイレンススズカはある意味私の一生の目標なのかもしれない。
"
マヤノトップガン

アスコット
ナリタブライアンの衝撃で始まった私の競馬歴からもっとも熱くさせた彼(馬)がマヤノトップガン!!
菊花賞・有馬記念時はあれよあれよの逃げ切り勝ちでまだそれほどファンというわけではなかった。しかし、この名馬には競馬史に残る名勝負といって言いぐらいのレースが2度もあった。翌年の阪神大賞典のナリタブライアンとの叩き合い。あの叩き合いをまじかで見たときの興奮は今も忘れない。
そしてなにより、97年の天皇賞・春いままで、逃げ・先行だったトップガンがすごい豪脚で差し切ったレースは鳥肌モノだった。逃げて良し、差して良しの馬はトップガン以降まだ見ていない・・・それほど心に残る私の名馬です。
エイシンバーリン
アスコット
牝馬最高の逃げ馬だったと思います。旧3歳時のクイーンカップでスタ−ライトマリー、プライムステージに次ぐ3番人気の評価にもかかわらず、まんまと逃げ切ってしまった時に南井騎手とともにガッツポーズした自分。次走のアーリントンカップでは1番人気のメイショウテゾロが+14Kで消え、2番人気のダイタクテイオーを押さえ、またも低評価の4番人気で勝ち、すごい馬だと思いました。その後G1は勝てませんでしたが重賞戦線を勝ち負けして頂き、自分の懐を温かくしていただきました。本当に思い出に残る名馬です。
エアジハード
チャーチルダウンズ
あれは、グラスワンダーとキングヘイローの2強対決と騒がれていた’99年の安田記念でした。
2週前のオークスで勝ったウメノファイバーと同じサクラユタカオー産駒、そして騎手も同じ蛯名騎手でのグラスワンダーをハナ差制しての勝利!
ユタカオーは当時種付け不受胎が続き、もはや種牡馬失格の状態での最後の華を咲かせ、血統の底力みたいなものを感じました。その後グラスワンダーが左回りが苦手という事もあり、この勝利もフロック視された所があったかもしれませんが、秋の天皇賞では休み明けでハイペースを先行して3着。
そして初輸送でもあったマイルCSではキングヘイロー、ブラックホークを抑えてのレースレコードでの快勝!春秋マイル制覇となりました。
このレースが私にとっても初めての馬券的中でありました。
(エアジハードとキョウエイマーチの枠で買っていまして、キョウエイマーチと同枠であったキングヘイローが2着だったので的中しました。^^;)
その後予定していた香港遠征は故障の為、そのまま引退となりましたがもし無事なら初の父内国産の海外G1制覇となっていたと想像しています。ユタカオーの系統ではバクシンオーがG1馬を輩出しましたがエアジハードも頑張ってその血を残して欲しいと願っています。
ホクトベガ
ロンシャン
93.3.20フラワーカップで初めてホクトベガを見て衝撃が走った。着差は1/2馬身でしたが持ったままの大楽勝この馬はG1級と確信しました。所がクラッシック路線に突入すると新星ベガの影に埋もれてしまい惨敗続き・・・自分は馬を見る目がないと思っていた単なる早熟馬だったのか?と思っていました。
季節が変わり秋に突入4歳G1最終戦エリザベス女王杯で初G1制覇 ベガはベガでもホクトベガ この実況を耳にした時はとても嬉しかったす。自分の予\感が的中した事とホクトベガ自身もいままでのうっぷんを晴らしてくれた事に競馬のドラマを感じました。その後不本意なレースが続きこれで終わりかなと思っていた矢先ダートで新味を出し無類の強さを見せつけました。その強さは圧巻でした。
勝利を重ねついにドバイに挑戦レース中不慮の事故により予\後不良なんとも痛ましいことになりました。これだけ息の長い活躍をして芝、ダートでG1制覇自分の中では一番の名牝だと思っています。ホクトベガの子供がターフを走れる事を楽しみにしていましたがそ
れを見る事も出来なく非常に残念です。是非競馬Liveでホクトベガの走りを再現させたいしホクトベガの血を残してあげたいです。
ステイゴールド
大井
いつもG1いいとこにきながらなかなか勝ちきれない…。それだけに応援したくなる馬でした。サイレンススズカ、スペシャルウィーク、グラスワンダー、テイエムオペラオーなどなど、強敵と戦い続けて、国内G1は勝てませんでしたが海外にいってのあの強さ!特に引退レースの香港ヴァーズの差し切り勝ちは本当にすごくて鳥肌がたちました。とても大好きな馬です。
バースルート
エプソム
20馬身差をつけて勝って、馬券を取らせてもらった馬です。私の中では最高の逃げ馬でしたが、それっきりいつの間にかいなくなってしまいました。
グラスワンダー
ナドアルシバ
アグネスタキオンについて思い入れを前回送らせていただいたのですが、ちょっと熱い想いというか堅い文になってしまったため、仕切りなおしということでグラスワンダーを語りますw
「栗毛の怪物」とグラスワンダーには、誰ともなく早い時期からこの異名が使われていたのではないか?彼がターフに颯爽と登場すると、スポットライトを独り占めにしているような、一種独特な雰囲気(オーラ)を持っていたように私には映った・・・。
1995年2月18日に彼はアメリカという異国の地に父:Silver Hawk母:Amerifloraの仔としてこの世に生を受けた。おりしも日本ではこの年、「阪神大震災」という史上最悪の未曾\有の大災害、「地下鉄サリン事件」という大都市で化学兵器の使われた、日本史上最悪のテロ事件が起こったのだった。
アメリカから日本にやってきた彼は、新馬戦から朝日杯3歳ステークスまでの全てのレースで単賞1倍台の支持を受け圧勝を続けた。
朝日杯3歳S(現・朝日杯フューチュリティS)には、後にG1馬となるマイネルラブ、海外1馬となるアグネスワールドらも出走していたのだが、幾ら成長過程にあったとしても、彼には全く歯が立たぬままレースが終わっていた。
外国馬であってクラッシク3冠に出走できないことを惜しむファンの声が席巻したのもこの頃である。しかし、翼を広げより高みへと飛び立とうとした矢先、彼の翼は悲鳴をあげくずれさっていくととなった・・・。
レース後に発覚した重度の骨折、彼が私の前でターフをはばたく姿を見せたのは翌年の10月だった。しかし彼は輝きを失いかけていた。いや、失った輝きを取り戻すためにもがき続けていたのかもしれない。復帰初戦の毎日王冠、2戦目のアルゼンチン共和国杯。輝きを取り戻せそうでできない。もがいた。彼は、必死でもがき私・・・いやファンのためにもう1度空へとはばたく姿を見せようとしていた。
こうして向かえたグランプリ有馬記念。4番人気ではあったが、オッズからすると低評価に彼は反発したのかもしれない。この年のクラシック2冠馬セイウンスカイなど抑え1年前に眩き輝きを取り戻したのだった。(このまま終わってしまうのかと思ってしまった私は、グラスワンダーを最後の最後に買い目からけずってしまったw)
翌年は、初戦となる中山記念を前に筋肉痛の発生、4月産経大阪杯の前には左目の下を切るアクシデントでこれまた回避。
順風満帆には進まない快速ワンダー丸・・・ファンをヒヤヒヤさせるところもまた彼の魅力だった。この年の初戦として選ばれたのが京王杯SCとなる。このレース(私は絶対に届かない。エアジハードの勝利だなと感じた)を彼は勝ってしまうのである。
1400〜2500mまでの広い距離範囲を縦横無尽に駆けぬける姿に、誰もが「現役最強」の称号を敬意を持って送ることとなった。
次走が安田記念と決まったときもファンは誰もがワンダーの勝利を確信した。いや、確信せざるをえなかったのではないだろうか。
しかし、天は彼に試練を与えたのだ。前走で退けたエアジハードに後塵を拝したのだ。たったの鼻差だった。まだ絶対君主、最強の王者と呼ぶには早すぎるということなのか。はたまた生涯最高のライバルでもあろう前年のダービー馬スペシャルウィークの存在を思い知らせるためなのか・・・。この先彼はこのライバルと2度の死闘を繰り広げることとなる。
第40回宝塚記念、第44回有馬記念。特に有馬記念は凄かった。
現役最強馬を懸けた2頭の勝負はあまりにも微妙で、ゴール直後にはどちらの騎手も「俺か!」と互いを見つめあった。その後勝利を確信した武豊と愛馬スペシャルウィークはウィニングランを始め、場内を回る彼らを見つめながら的場均はワンダーをさげていったのだ。
しかし的場の目には信じられない光景が飛び込んだ。ターフビジョンの着順表\示の1着には3の数字ではなく7の数字があった。正直私もスペシャルウィークが勝ったと思っていたし、その勢いでTVを消してしまったのをハッキリと覚えている。
(今思うともったいないことをしたw)
鼻差(正確には4センチ)の勝利だった。これを最後にライバルは現役を退くこととなったが、彼は翌年も走り続けた。現役最強という4文字へのこだわりと若い馬達への叱咤のために彼は走り続けた。しかし、有馬記念での死闘が原因でなのか、彼は輝きを失ってしまっていた。皮肉にも彼が輝きを失ったのとと同時にテイエムオペラオーという原石が輝きを見せ始めたのだ。何かと怪我の多い怪物君ではあったが、その走りはファンに感動を与えてくれたのではないでしょうか。引退後は父親として活躍しているが、ライバルのスペシャルウィークには1歩遅れをとっている。競馬伝説内ではグラスワンダーの仔を生産したことはないのですが、必ず作ります♪グラスワンダー産駆最初の重賞馬、G1馬を目指して・・・
以上で終わります。
アグネスタキオンより個人的にはこっちの方がよくかけたかなとw
思い入れの名馬ということで改めてグラスワンダーを振り返りましたが、いやはや語りつくせませんね。私の思い入れが採用され、グラスワンダーモデル馬でグランプリを制覇する夢をみつつ吉報を待ちたいと思いますw
レガシーワールド
ロンシャン
彼との出会いは1992年秋、第12回ジャパンカップ。
欧米などの強豪馬を相手にトウカイテイオーが勝利を収めた。シンボリルドルフ以来となる日本馬の勝利、そして、父子制覇。府中は歓喜に包まれていた。
その陰に隠れていたが、彼の馬番は確かに掲示板の上から4番目に表\示されていた。セン馬であるが故に歩んできた裏街道。GIの舞台でも彼は脇役に甘んじた。
それから1年後、府中の同じ舞台を彼は駆け抜けた。主役を演じることなく歩んだ彼が、歓喜の中心にいた。一番上にあるはずの彼の馬番が滲んで見えなかった。
その後の有馬記念後に故障休養。再び彼がターフに姿を現すまで1年半の年月が過ぎた。しかし、帰ってきた彼は、もうあの頃の彼ではなかった。気持ちで走る彼に全く闘志が見られず、惨敗を繰り返した。セン馬であるが故に走り続けることを余儀なくされた彼を見るのが辛かった。「どうか無事で帰ってきてくれ」そう祈っていた。
彼は今、生まれ故郷の静内・へいはた牧場にて静かに余生を過ごしている。私も何度か訪れたが、今でも彼に会いに来るファンが大勢いるようだ。そんな人々を彼は優しい目で迎えてくれる。
マヤノトップガン
大井
まずは1つ目!菊の大輪咲かせて全国区へ。
やはり本物!有馬制覇で年度代表馬。
のこりの直線は3冠馬と2頭だけのマッチレース。
とても強くてライバル回避?春のグランプリも制覇。
つよい馬はマークされる!年下に脚元すくわれる惜敗。
ぷらいども復活!脚質自在に鮮やか阪神大章典。
がちんこ対決に雌雄決す!いまだ破られぬ春天レコード。
ん?想いは言葉にできない!記憶とともにマヤノトップガン!
タガノテイオー
ナド・アルシバ
一緒に走った馬ではG1で一番早く走り抜ける馬も多く、特にジャングルポケット・アグネスタキオンなど名馬に相応しいライバル世代。
朝日杯ではレース中骨折を起こしながらも走りぬけ、3着という結果以上にその後の走りを見たかった・・・その後の走りをぜひ競馬伝説で作ってみたいと思います。
スーパーショット
アスコット
メジロラモーヌと同期でG1には届きませんでしたが、競馬場のパドック、レースで優秀な能力の片鱗を見せ続けてくれました。 
パドックで首を伸ばし周囲を確認するように優雅に歩く姿に知性を感じ、すっかり魅了されファンになってしまいました。とても大人びた姿は、筋肉もりもりでマッチョのようなラモーヌと好対照でした。
関西に転厩しエリザベス女王杯でラモーヌを追い詰める最後の直線はTVの前で人前をはばからず絶叫していました。若かった私は、彼女の馬券で春から負け続けもう後がないという大勝負をしていたからです。(場外馬券売り場からの交通費すら)
クラシックや重賞でラモーヌとの馬券を買い続けていたのです。
馬券とは勝ち馬投票権のことです。1−2着馬を的中させるためのものなのですが、なぜかあのスーパーショット嬢には、客観的な思考をさせてもらえませんでした。彼女のレースを通して競馬等ギャンブルの醍醐味と怖さをしっかり学ばせてもらえました。私にとっていろいろな意味で忘れられない馬でした。
カルストンライトオ
ロンシャン
スタートダッシを武器に何としてもハナをきる根性。
道悪も得意とし見事スプリンターズステークスを制覇。
JRA芝1000のレコードホルダーでもあります。
種牡馬として今後活躍してほしい1頭です。
ライスシャワー
アスコット
私がこの馬と出会ったのは、小学6年生の時に、父が競走馬のぬいぐるみを私にくれて、その競走馬がライスシャワーでした。
今まで、競馬にまったく興味が無かった私が、ぬいぐるみについて知りたくなりいろいろ調べ始めたのが、今につづく競馬暦の始まりでした。
また、調べ始まると、競走馬では致命的である骨折を2度もしながら3度のG1制覇し、最後のステイヤーとも言われる活躍をしながら、平成7年の宝塚記念で骨折、安楽死処分になったことを知りました。
その頃の私は、ある病気を抱えて、その病気を理由にいろんな事から逃げるような日々を送っていました。しかし、ライスシャワーの事を知り、ライスシャワーように何度でも克服して逃げずに頑張ろうと!思うようになることができました。
いわば、ライスシャワーは私の人生の先生のようであり、競馬暦の原点でも馬です。この馬がいなければ、私はどうなって居たか想像もつかないし、競馬に興味を持つこともなかったかもしれません。
グローリークロス
アスコット
外国からの輸入種牡馬全盛の昨今の競馬情勢…父内国産のタマモクロス、母父シンザンという競馬ファンには涙の出そうな配合。当時の南井騎手をして「鬼脚」と呼ばせた鋭い伸び脚の持ち主!若葉Sでは、あのビワハヤヒデの3着を足がかりにNHK杯→ダービーへの夢へ。結局、ダービーどころか、NHK杯のゴール板さえ通過できなかった…。
あの事故さえなければ!…「たられば」ではあるが、間違いなく当時のG1戦線で活躍出来ていた馬であると思っている。
プレストウコウ
アスコット
競馬とは今でもそんなに縁がないが、ある日のこの馬だけは良く覚えている。
テレビは競馬中継をやっていた。最後の直線になってアナウンサーが声を張り上げ始めると自然に画面に眼が行く。どす黒い馬の一団が一生懸命駆けている画面の右側に、
突然白い物が現れたかと思うと、あっという間に大きくなって一番初めにゴール。
それがプレストウコウ。かっこよすぎた。
ゲームの中でも、芦毛の馬が生まれると、とても嬉しい。残念ながらまだ彼のような渋い奴にはめぐり合っていないけれど。
ホッカイルソー
ロンシャン
私がホッカイルソーのレースを初めて見たのは95年の弥生賞だった。無敗の朝日杯馬フジキセキが楽勝かと思われた直線で、フジキセキを差しきるかと思うほどのすさまじい末脚を繰り出す。結局ホッカイルソーは2着に敗れるものの、このレース以来私は彼の単勝馬券を買い続けることになった。その後、彼は善戦するものの勝ちきれないレースを繰り返し4歳の日経賞を迎える。日経賞には快進撃を続ける逃げ馬カネツクロスが出走している。レースが始まると、重馬場の中いつもどおりカネツクロスは快調な逃げを打ち、直線に入っても脚色がにぶらない。カネツクロスの圧勝かと観念したとき、後方から泥まみれになっ
たホッカイルソーが追い込んでくる。重馬場にもかかわらず、すさまじい末脚を繰り出してカネツクロスを差しきり、重賞初制覇を果たした。彼がこのレースで見せた末脚は他のどんなGIホースの勝ち方よりも鮮烈だった。
トウカイテイオー
アスコット

小学生の頃、初めて競馬をTVで見たのが93年の有馬記念だった。
父親がテイオーを応援していたので意味もわからず自分も応援していた。
そしてあの「奇跡の復活」を見る事となる。その後、競馬に興味を持ち、競馬にのめり込んでいくと共に、テイオーの「強さ」「悲運」そして「奇跡」を思い知りどんどん惹かれていった。
自分が競馬に興味を持ったのはテイオーのお陰であり、自分にとってテイオーはいつまでも最高の名馬です。

ビワハヤヒデ
ナド・アルシバ
柴田政人悲願のダービー制覇、トウカイテイオー奇跡の復活の2着といつも脇役だったビワハヤヒデ。
弟にナリタブライアンがいて少し地味な印象もありますが、あの安定感はすばらしかったと思います。兄弟対決はなりませんでしたが、今でもビワハヤヒデのほうが強いと思うし、大好きです。
ミホノブルボン
エプソム
当時私は独身だった。彼女は、職場の同僚で、背が低く、ベビーフェイスという姿と裏腹に仕事をてきぱきとこなし、そのアンバランスが好印象だった。当時ブルボンの知名度は高く、彼女もブルボンの話題で競馬の話に加わってきてくれた。何人かで、休みの日に競馬場に遊びにもゆくようになった。そんな矢先、夏の人事異動で、私は地方に転勤となった。ブルボンが菊花賞をとったらお祝い会をしようという約束をして、笑って別れた。また、秋にあえるだろうということは疑わなかった。ブルボンなら距離の不安を克服してくれると。菊花賞
は、結果は残念だったけど、私は、ブルボンは距離を克服した、じゅうぶんがんばったと感じた。その後彼女に連絡をとらなかったのは全く私の問題である。今は私も仕事を独立し、子供もできた。あのときに戻ろうとは思わない。でも、もしチャンスがあるのであれば、もう一度ブルボンを走らせたい、3000メートルを今度は思う存分逃げ切らせてみたい。
エルコンドルパサー
エプソム
競馬に興味を持ってしばらく経った頃、ある競馬雑誌で初めてPOGという言葉を目にして、参加してみることにしました。3頭の2歳馬(当時は3歳馬)を選ぶのですが、写真を見ながら選んだその中の1頭がエルコンドルパサーでした。他の2頭はデビューしたのか情報も全くありませんでしたが、エルコンドルパサーはデビューするとあっという間に2連勝して重賞に挑戦ということになりました。共同通信杯はテレビで見ていました。残念ながら降雪でダート変更になり、芝はお預けになってしまいましたが、その強さを初めて目の当たりにして当然のようにその馬に引き込まれてしまいました。その後、芝も圧倒的な強さでこなし、NHKマイルCでは一瞬不利を受けたように見えながらも他の全勝馬たちを寄せ付けませんでした。その頃にはグラスワンダーとどちらが強いかなんていう論争もありましたが、自分はエルコンドルパサーが断然だと信じていました。毎日王冠ではサイレンススズカに敗れたものの、JCでは大本命でレースを見ていました。そして、勝った時には嬉しくてテレビの前で絶叫していました。中学生だったので馬券は買えませんでしたが、友達との予\想対決には圧勝しました。今でもグラスワンダーファンの友達とスペシャルウィークファンの友達とこの3頭は誰が強かったかなんていう話をします。それもこれもまだ馬名も決まっていなかった頃のエルコンドルパサーの写真から始まっていたんだなぁと懐かしくなります。若くして亡くなり子どもは3世代しか残っていませんが、自分のメールアドレスは未だにエルコンドルパサーにちなんだものになっていますし、残された子どもたちがいつかG1を勝てるように応援するのが楽しくてしかたありません。中学生の頃から10年もの間、競馬にはまり続けているのは彼のおかげです。
ナリタブライアン
エプソム
圧倒的な強さの3冠馬であったことと、武豊騎手全盛時に苦労人南井騎手の手綱による達成というところで非常に感動したことを憶えています。
ブロードアピール
ロンシャン
思い入れの理由ですが、ダートのレースを見てもらえれば説明不要だと思いますね・・・。
ダートでの上がり34秒台前半の追い込みはとんでもなかったです。
最後方の有り得ない所から1頭違いすぎる足で飛んで来る様は感動とか言うよりも驚きと衝撃で笑うしかなかったです。1頭だけ芝走ってるんじゃないかと思いましたね(笑"
ラムタラ
アスコット
私が競馬に興味を持つきっかけとなった馬、ラムタラ。
ラムタラが活躍した当時は小学生でまだ競馬を知らなかったが中学生の時某競馬ゲームでラムタラの存在を初めて知った。このラムタラには生まれつき体質に不安があったが
病気や怪我と戦いながら史上初の無敗で世界最高峰のレースを制した。
そして馬主は世界最高峰のレースをすべて制覇し、これ以上走らせるレースが無いとしてラムタラを引退させた。もしそのまま走り続けていればいったいどんな記録が生まれたのだろうか。
チタニックオー
ロンシャン
北九州3歳Sとシンザン記念でダイタクリーヴァとの接戦に感動したから。
ナリタブライアン
ロンシャン
ご存知、前3冠馬。この馬も3冠制覇時の圧倒的な強さは光ったが私のナリブーのベストレースは僅差決着の阪神大章典!相手は前年の年度代表\馬。スタートから2頭が先頭を争うガチンコレース。マッチレースのまま最後の直線、お互い譲らず最後は僅かにトップガンが伸びるが、更に内からナリブーが!この瞬間、私は競馬場に居ましたが皆が「差せ〜」って大声を張り上げてました。もちろん私もでした。3冠馬の決して名レースではないけれど、3冠制覇時以上に記憶に残るレースであり熱いレースでした。
クロフネ
ロンシャン
競馬改革年(ダービーへの外国馬の出走が認められる)正に馬名の如く、海外から怪物が来ました!しかし、しかし時代は違いますが、今回も日本はこの怪物をダービーで追い返しました。その後、路線をダートに変えた訳ですが、・・・。なんですか、あの武蔵野Sのレース。レース観て笑っちゃいました^^1頭だけ芝のコース走ってる?って衝撃(○○インパクト!)を受けました。重賞で、更にはG?であんな勝ち方したのは未だに鮮明に覚えています。やっぱりこの馬は命名された時から運命が決まっていたのかもしれませんね。競馬は血
のロマン。ゆくゆくはこの馬の血も近い将来、日本を席巻するかもしれませんし実はそれが真の定めなのかもしれません。もちろん私は応援しますが。
ホクトベガ
ロンシャン
私の記憶では砂の悲運の女王です。この馬が今のダート路線の改革と地位を築き上げたと言っても過言ではないと思います。あの連勝記録とともに悲しい結末を迎えたことが記憶に残っています。どのレースが扱ったとかではなく、ただこの馬の血をこの競馬伝説でかみしめることが出来たら・・・。競馬ってこんな熱い血のドラマがあってそこがいいんですよね^^最近(リアル競馬)では、あっ、あの馬の子供がレースに出てるってだけで人気(オッズ)も関係なしで馬券の軸にしてしまいます。そんなこんなで、是非、この悲運の砂の女王の仔
を、現実では残せなかった子供を競馬伝説で残せれば素晴らしいことだと思います。"
ザカリヤ
アスコット
かなりマイナーな馬ですが、私の一番の思い出の馬と言ったらザカリヤです。
というのは、まだ私が競馬を見始めたばかりだった99年にNZT4歳S(当時)の走りを見て物凄い感銘を受けました。馬ってこんなに綺麗なんだなぁと。そしてとても鮮やかな差し方。
このレースを見ただけで、ザカリヤのファンになってしまいました。
当時あった二ノ宮厩舎のHPで「ザカリヤのファンです!」と掲示板に書くとそのHPを運営していた厩務員さんが気を利かせてくれてザカリヤが厩舎で寝転んでいる画像を載せてくれました。この時の嬉しさはもう言葉にできませんでした(笑)
そしてNHKマイルカップ。シンボリインディに届かず2着だった時は悔し泣きしてしまいました。もう少しでエルコンに続いて二ノ宮先生にG1をプレゼントできたのに。夏は休養に入ったらしく、毎日王冠に出走していましたが主戦だった的場さんじゃありませんでした。そしてブービー。信じられませんでした。確かにグラスワンダーなど強い馬が出ていましたがあんな負け方をするなんて・・・。
そしてその後も的場さんが乗ってくれることはなくブービー続き。あと1回でも的場さんが乗ってくれたらなぁっとばかり思ってしまいます。乗馬をしているので本気でザカリヤを引き取ろうかと思いましたがオーナーさんがプリモディーネの馬主さんと一緒でサンシャイン牧場で種牡馬になると聞いてとてもほっとしました。種付け頭数はやはりかなり少ないですが少しでも良い子が出来ればいいなぁと思います。ザカリヤは競走馬の素晴らしさを教えてくれた先生です。
クロフネ
アスコット
ダート馬では???という思いが払いきれないままNHKマイルカップへ。
4コーナーではかなり離され、「武〜!!後ろすぎぃ〜!!!」と叫んだものです。
そんな危惧を払拭するような直線の伸び。他馬がまるで止まっているようでしたね。
ディープと比べても決して劣るものではないでしょう。その後も、中2週でダービー出走や、JCDを制覇し芝ダートの両G1制覇など話題も豊かでした。古馬になってからを見られなかったのは残念でしたが、その競争成績、血統からも産駒の成績に期待しています
ハルウララ
大井
思い入れがあるといったらやっぱりハルウララ!
こいつがいたおかげで今俺は競馬好きなようなものだ^^
テレビで100連続近く負けていると言う馬が話題になっていたので何かとハルウララをネットで調べるようになった。その後ハルウララに限らず色んな競走馬のことを知りたくなった(まだ全然詳しくないが^^;)
名馬ではないが俺にとっては好きな競走馬の1頭だ。
エガオヲミセテ
ロンシャン
エアグルーグの半姉妹という血統以上にその名前が大好きでした。山元での火事がなければどんな子を産んでくれていたのだろうと今でも思います。G1を勝ったとかそういうのではなく、彼女の子供を育てれたら最高だなぁと思います、それがゲームであっても。無料会員なので対象外ですが、ぜひ彼女を再現してもらえたらと思い、応募いたします。
スターマン
アスコット
競馬玄人なら知ってると思いますが、三冠馬ナリタブライアンを京都新聞杯で破った馬である。2度の故障からも復帰し、全盛期のブライアンに唯一勝ったスターマン。G1を勝ったことがないが、強烈に印象を残してくれました。実際には実現できなかったG1制覇を競馬伝説で実現させてあげたいです!!!
その後、種牡馬としてスターマンの血を残して生きたいと思っています。馬房を空けて待っています。是非スターマンえを。
マティリアル
エプソム
87年の皐月賞前哨戦、スプリングステークス。
伝説のように語られるレースになるとは知らず、私はテレビで観戦していた。
4コーナー過ぎで依然最後方の1番人気馬、マティリアル。
直線の短い中山で、誰もが、その馬の敗北を確信したと思う。
しかし、最後の直線でメリーナイスやゴールドシチーなどのライバル11頭を一瞬でとらえ、マティリアルは先頭でゴールした。まるで、雷雲から放たれた稲妻のようで、私の体にも電気が流れたようだった。それ以降は負けが続き、2年後の京王杯AHで勝利するが、故障してこの世を去った。あのスプリングステークスの衝撃は今でも忘れられない。
タガノテイオー
アスコット
ジャングルポケットに勝るとも劣らぬ素質ありと言われながら、朝日杯レース中の故障で予後不良となってしまった彼。骨折したまま最後の100mを駆け抜け2位に食い込んだ姿が涙を誘いました。やんちゃなままで終わってしまった彼をゲーム内で是非再現してください。
オグリキャップ
エプソム
2400mを最初から最後まで全力疾走したジャパンカップ。直線で失速するどころか加速してゆくキャップに、もういい、もう無茶だと心で叫んだ者は多かったと思う。それでも、むしろ加速し、2着ではあったが、世界レコードを記録した。キャップは、ゴールがどこにあるかわかっていた。そこまでの間に、すべての力を出し切るんだという明確な意思を感じた。だから最後の有馬記念は、本当は見たくなかった。これ以上彼の誇りが傷つくことが怖かった。しかし、奇跡は起こった。直線に入ると馬群の中でキャップだけが浮き上がって見えた。映像効果のように、他の馬はオグリの背景となった。これから馬群を抜けるんだということがわかった。案の定キャップは抜け出した。もうキャップも見れなかった。涙で目が開かなかった。アナウンサーが1着を告げたとき、騎手と馬の連呼に混じってありがとうという叫びが沸き起こった。大の男たちが泣いていた。オグリキャップを体験したことは、私の財産となった。
ウインラディウス
大井
自分が競馬に目覚めたのが約1年半前でした。それまでは全く競馬に興味などありませんでした。その時初めて買った馬券が2004年の安田記念!ウインラディウス2番人気で無念の14着と惨敗してしまった。別に人気がついていたから買った訳ではありません。ただ名前がかっこよかったから買っただけでしたw 
自分はなぜがその時からウインラディウスのファンになり、出るレースすべての単勝馬券を買い続けています!ウインラディウスという馬がいたから自分は競馬に興味を持ったと言っても過言ではありません。その4ヵ月後のスプリンターズSでは4着に健闘しました。
未だG1勝利は成しとげていませんが絶対いつかG1制覇してくれると信じています!今年8歳の高齢馬ですが頑張って欲しいです!これからも応援します^^
コスモバルク
エプソム
コスモバルクを最初に見たのはラジオたんぱ杯2歳Sの時。ブラックタイド、ハイアーゲーム、ミスティックエイジら素質馬に注目がいっていました。逃げを打ったコスモバルクにミスティックエイジが迫ってきて交わすと思ったとき、そこからもうひと踏ん張りして逃げ切り。「地方馬だけどこの馬は強いな」と思ったのがひとつ。何にせよ「絶対に抜かせない、負けない」とでも言わんばかりの走りが良かったのです。外厩馬だということを知ったのはまだこのあとのこと。応援する大きな材料になりました。
その後弥生賞を勝ちましたが皐月賞は惜しくも2着。ダービーは引っ掛かって自滅。北海優駿を勝って挑んだセントライト記念は日本レコードでの勝利。しかし菊花賞4着、ジャパンカップ2着、有馬記念は惨敗とG?制覇はならず。さらに昨年は日経賞で引っ掛かって負け、天皇賞?春は出れず。チャンピオンズマイル、宝塚記念、毎日王冠、ジャパンカップと惨敗を繰り返し注目度は大きく下がってしまいました。そこに無敗の三冠馬ディープ
インパクトとくれば注目されないのは当然と言えば当然。そこで見せ場十\分の4着は価値あるものです。今年には大きな期待があります。
コスモバルクの外厩馬としての中央挑戦は単に「地方競馬を盛り上げる為」ではないことは以外に知られていないような気がします。現在の厩舎制度それに伴う委託料の問題。ラフィアンTCのHPである程度知りました。それに未だ地方から中央への挑戦には壁が存在します。もしコスモバルクが皐月賞惨敗、または熱発等で回避となり(トライアルで権利を取らない限り)ダービーに出れない、となっていたら誰もが納得できないのは簡単に想像できます。国際化の前に国内の壁を取り払うというのは赤字を抱える地方競馬にとっては確実にプラスのはずです。コスモバルクには強さだけでなく背負っているものがあるのが応援に、思いいれにつながっています。やはりこういう馬がいてこそ競馬は楽しい。
ホワイトストーン
ロンシャン
近頃生協の白石さんが脚光を浴びていますけれども、私が競馬を理解し始めた1990年、まさに時代はオグリキャップ世代でした。
この年のダービーでアイネスフウジンがレコード勝ちし、中野コールが府中に鳴り響く中、私はホワイトストーンに釘付けだったのです。
もしかしたらこの馬は大物かも!菊花賞勝つかも!そう確信していました。
競伝Liveではシービークロスやタマモクロスがグレイソヴリン系ですけれどもクラシックを賑わしたホワイトストーンこそが種牡馬として復活してもらいたいと考えています。
セントライト記念でホワイトストーンの成長振りを確認した私は、生まれて初めて京都競馬場に行きました。(もちろん親同伴でしたですけれども…)
パドックとかの雰囲気もさすが東京とは違う感じで、見るもの全てが新鮮でした。
でも心配されていた通り馬場が悪く、末脚が爆発したものの時既に遅しでした。
それからは勲章を手にしたい願いからか、誰もが首を傾げたくなるようなローテーション。
それでも期待に応えようと頑張る競馬の白石さん。
ホワイトストーンの主戦は田面木騎手か柴田政人騎手でしたけれども、ホワイトストーンとの呼吸が微妙に合っていなかったように思えます。
今の時代ならば海外から一流の騎手が短期免許を取得してやって来ますけれども、ホワイトストーンの気性の悪さも上手く乗りこなしてくれるかもです。
父内国産の名馬の存在を海外にも教えたいですね。
メジロマックイーンやメジロライアンはその後も産駒に能\力を伝えていますけれど、ホワイトストーンはせいぜいアローウィナーくらいしか名前が出て来ません。
私が育てることが出来なくても、いつかホワイトストーンの勇姿が再び再現できる日が来たらとても嬉しいです
サムソンビッグ
大井
確かに彼は弱かった。でも、三冠馬ナリタブライアンと一緒に無事に三冠レースを出られた馬がどれだけいたでしょう?
彼は生涯一度、きさらぎ賞で大穴をあけました。平地ではボロボロになったけど、彼は新天地の障害レースでデビュー戦レコード勝ち。人間でも馬でもどこかに必ず芽を出せるところがあるんだと教えてくれました。弱いけど、私にとっては物凄い大好きな馬です
イソノルーブル
大井
相性『裸足のシンデレラ』で知られている1991年のオークス馬。ちょうど競馬を始めたときに見た競走馬でシスタートウショウ・スカーレットブーケら良血馬に対し、オークスを制した名牝。無傷の4連勝で桜花賞に挑戦。落鉄していたのにそのまま走らされ5着に負けた。『なんでそんな状態で走らせるのか!』と怒りくるっていた。しかしオークスで見事シスタートウショウをハナ差抑えて勝利!とっても嬉しくて大はしゃぎしていたのが懐かしい。その後怪我で引退してしまいましたが競走馬として初めてず〜と追いかけた馬です。今の自分の応援する競走馬の原点かもしれません(マイナー血統)
ナリタブライアン
ロンシャン
朝から降り続く雨は止み、ターフビジョンには歴代の三冠馬が写し出される。
シンボリルドルフ、ミスターシービー。「あぁ、もうすぐこの歴史的瞬間に立ち会える。」
ナリタブライアン三冠レース最後の関門菊花賞。私はこの前日、観光を兼ね京都に来ていた。競馬を始めて2年目でこんな名馬に出会えるとは、なんとついているのだろう。
そして発走5分前、ターフにはミホノブルボン、タニノムーティエ、三冠を逃した馬たちが名を連ねる。「いや物見せんなよ!」期待と不安の中スタートが切られた。
1周目、しっかりと折り合って、スタンドを通過ぎていく。
「たのむ、怪我をせずに走ってくれ。」
わが子を応援する親の気持ちになっていた。4角を廻り最後の直線へ!
私の不安をよそに彼は、圧倒的な強さでゴールした。
結果は7馬身差のレコード。
歴史的瞬間に立ち会えた喜びと、無事に走り終えた喜びととが合わさった、
複雑な気持ちになっていた。その後、怪我かの復活を見せた、マヤノトップガンとの一騎打ち等、人々の記憶に残る名馬となった、このナリタブライアンこそ私のNo.1ホースです!!!!!
プレストウコウ
大井
父グスタフ、知ってます?短距離血統といわれながら菊花賞馬に輝き(直線大外一気の末足。白い稲妻!と新聞の見出しを飾りました。さすが豪腕郷原)翌年の天皇賞では引っかかりまさかの大逃げ。後わずかのところで稀代の長距離馬テンメイにかわされ2着に敗れはしたものもあの直線の頑張りには涙があふれました(カンパイで止まれずスタート前に1周余計に走ってしまいそれが無ければ絶対勝っていたと思う。)
Tポイント、Tボーイ、Gグラスのひとつ遅い世代。同期にはマルゼンスキーなどがいて、あまり目立たなかったと思いますが私を競馬好きにさせてくれた一番想い出深い馬です。
スダホーク
エプソム
初めて行った競馬場は、中学の時に父に連れられていった京都競馬場です。
その日のメインレースは、天皇賞(春)。
1番人気は、単枠指定のスダホークでした。
芦毛のその馬は、結局7着に終わり、同じく人気していたサクラユタカオーも敗れ、連複は万馬券と荒れました。それ以来、スダホークを応援するようになりました。
その後もGレースでの勝利は有りませんでしたが、Gの常連として善戦する姿、年を追う毎に白くなっていく馬体も印象に残っています。
86年の父と見た天皇賞は、名脇役が一瞬主役になったレースのように思います。
テイエムオペラオー
エプソム
2000年の年初めに、ある男が一つの宣言をした。
「一年間 無敗で走りきる」主戦騎手である和田竜二騎手の言葉である。
今までの競馬の歴史を振り返っても、無敗の3冠馬シンボリルドルフでも、あのディープインパクトでも達成していない記録である。しかも、彼は2000年に GI5戦とGII3戦の計8戦に出走し、全部1番人気に押される状態である。でも、馬も騎手も厩務員も負けなかった。大きな故障・体調不良もなく無事にレースに出走し、全部勝ち切ったのである。
勝つレースも、圧倒的ではなく首差、頭差がほとんどできっちりゴール版の前で捕らえきったり押さえ込んだりする、勝負根性はすばらしかった。中でも圧巻なのは、8戦全勝のかかった「有馬記念」。
いつもより後方でレースを進めていたオペラオーに、4コーナー前で不利を受け、更に前には10頭以上の馬がいる団子状態!!直線の短い中山競馬場では、まさに絶体絶命の状態にまで追い込まれてしまった。
しかし、オペラオーも和田騎手も落ち着いていた。一瞬馬群がばらけた瞬間に、爆発的な
末脚で、その隙間に騎手もオペラオーも迷わずに突っ込んでいったのだ!
前に道があれば、彼は迷う事無く爆発的な末脚を炸裂させて、並ぶ間も無く残りの馬を抜き去り、残ったメイショウドドウを鼻差で差し切った所がゴールだった!
彼は、間違いなく”最強馬”の称号を手に入れた。そして目立った故障も少なく、3歳〜5歳まで常にターフに姿を見せていた彼には「無事是名馬」という名言も与えられた。
しかし、残念なのは、彼のGI勝利数がシンボリルドルフと並ぶ、7勝で止まってしまった事。
是非、彼の叶わなかったGI勝利8勝という記録を、オペラオー自身に挑戦させてみたい。
マヤノトップガン
ナド・アルシバ

『みどりのマキバオー』がテレビ放映されはじめ徐々に実際の競馬に興味を持ち始めた頃、古馬路線はサクラローレル、マーベラスサンデー、そしてマヤノトップガンと、3頭が激しい頂上争いをしていた時期でした。
サクラ、マーベラスにやや押され気味なトップガン。『もうダメなのかな…』と感じていたのは、自分だけではなかったはず。ところが、あの天皇賞・春。最後の直線、サクラとマーベラスが激しく競り合うその横を、豪快に抜き去った栗毛の馬体。菊花賞を制した淀の長距離の舞台で、トップガンがもう一度光り輝いた瞬間でした。産駒の成績では一歩リード。ブライアンズタイムの血の後継者になっていってほしいものです。

ノアノハコブネ
エプソム
おそらく彼女の名前を知っている人は多いかもしれません。
昭和60年のオークス馬の彼女をファンのなかには「奇跡のオークス馬」と呼ぶ人もいます。
ちなみに、鞍乗はいまや日本ではトップクラスの調教師ですが、騎手時代は鳴かず飛ばずだった音無秀孝氏でオーナーは珍名馬が多い小田切有一氏でした。
適当に名前を付けたわけでなく、当時関東馬に対して劣勢だった関西馬にとっての救世主になれば、という意味があったと聞いています。
彼女はレース前の予\想ではまったくのノーマークでした。それでも、調教師と音無騎手は何らかの手ごたえを感じていたらしいのですが、記者はおろか関係者まで取り合ってくれなかったそうです。実際、ダートで2勝、本番では28頭立ての21番人気の馬に鳴かず飛ばずの騎手では、なかなか取り合ってもらえなかったようです。しかし、このレースでは、スタートで後方に置かれながらも、最後の直線で大外に回り次々とかわしていき、最後の直線で25頭ををごぼう抜きしていき勝利を収めました。
レース後、世紀の大番狂わせをした彼女を背に記念撮影中にもかかわらず大泣きしていた音無騎手が印象的でした。無理だといわれながらも、最後まで馬を信じて指示を出した騎手に対して、最高の形で結果を出した馬がいた。私に競馬に絶対はない事を教えてくれた馬でした。
レガシーワールド
ロンシャン
競馬場では闘志剥き出しのレガシーだが、厩舎ではとっても大人しいお利口さんだったそうだ。しかし、その能\力を発揮させるために下された決断は「去勢」。繁殖能\力を手放した代わりに国際GIのタイトルを手に入れたが、どんなに活躍をしても手放したものを取り戻すことは出来ず、今レガシーは故郷・静内で静かに余生を過ごしている。
子孫を残せないレガシーのために私は幾多のゲームの中で似た配合の馬を生産し、子孫の反映を図ってきた。しかし、沢山のユーザがライバルとなるこのゲームでは、なかなかレガシーを再現することが出来ない。是非この機会にレガシーワールドをこのゲームに再現し、この世界で血をつなげたい。
フジヤマケンザン
ロンシャン
正直に言えば、8歳(現7歳)で本格化するまでは菊花賞で3着だったいわゆる「知ってるだけの馬」でした。しかし、8歳の中山記念で後の天皇賞馬サクラチトセオーを一蹴して能\力の片鱗を見せた後、香港国際Cで「富士山」の名で国産馬初の海外重賞制覇を成し遂げた時は心底感極まりました。本来の表\記は「藤山剣山」のようですが、「富士山見参!日本の馬だって捨てたもんじゃないぞ」という気持ちにさせてくれたのを覚えています。その名に違わず、母系はテンポイントやライデンリーダーが名を連ねるあのクモワカ一族と日本の誇る名族、父系にはトウルビヨン系のラッキーキャストとどこまでも玄人好み。そんな馬が流行の主流血統馬に先立って、しかも「富士山」の名で海外の重賞を制覇したんですから痛快この上ありません。ディープインパクトのような強い馬ももちろん好きですが、代々積み重ねられてきた歴史の重みも手伝ってか、やはりこういう馬が快挙を成し遂げた時の嬉しさは代え難いものがあります。相手にも恵まれずケンザン自身は産駒実績を残せず種牡馬を引退しましたが、今後もこういう馬を見つけて競馬を楽しんでいきたいと思っています。
ハイペリオン
大井
オーナーの第17代ダービー卿の息子(第18代)であった彼は、まだ12歳の時、2歳だったハイペリオンに初めて出会って以来、30年近くにも渡り、人馬共に歩んできた親友であったそうです。国政を担う祖父と会える機会がなく孤独な少年であったダービー卿にとって、ハイペリオンはまるで祖父と20歳の時に亡くなった父の変わりだったと思うし、ダービー卿にとってハイペリオンという馬は父が残した”遺産”であると同時に、常に勇気と力を与えてくれる存在だったのでは?ダービー卿はハイペリオンをこよなく愛し、そして馬もそれに応えるかのように素晴らしい功績を築きあげる。
不整心脈が現れハイペリオンが危篤状態に陥いった時、それまでずっと側で見守っていたダービー卿は、愛馬が見せる苦しげな表\情に堪らなくなり、とうとう一人抜け出して自分の部屋に閉じこもってしまったそうです。
・・・呼吸困難に苦しみ、死を前にした愛馬。館には静寂が広がり、部屋に閉じこもったまま、ダービー卿はそこから出て行くことが出来なかった。恐らく、自分にはどうしてやれば良いのか判らなくなったのでしょう。私も、ゲームとはいえこのような友と言えるような馬と巡り会えたら・・・と願ってます
ドクタースパート
ロンシャン
「ホスピタリティを覚えているか?」と競馬新聞片手に父が言った。
子供ながらに覚えていて欲しいという父の気持ちを察したが「覚えていない」と正直に答えた。1989年牡馬クラシック第一弾皐月賞が開催される朝の出来事だった。父の説明によると、初めて私を競馬場に連れて行ったときに、メインレースを勝ったのがこの馬だったと言っているが、小学校にさえあがっていない私はそんなことなど覚えていなかった。
しかし初めて競馬場に連れて行ってもらった日のことはいまでも覚えている。
当時はオグリキャップや武豊人気の前で、まだ競馬は社会的にいまほど認められていなかった。中央競馬でさえそんな状況なのに、歩いていける距離だとしても、平日に地方競馬の大井競馬場に子供を連れて行くようなことは珍しかった。
ドクタースパートが皐月賞を勝った。覚えてはいないが、間違いなくその目で見たホスピタリティを父にもつドクタースパートが勝ったのだ。
世間ではオグリキャップが爆発的な人気を博しているときであったが、そのときからドクタースパートが私のアイドルホースになった。そこから追っかけが始まるのだが、子供のお小遣いで競馬雑誌を買えるわけもなく、ましてやインターネットもない時代であるからほとんど情報が入ってこない。父が買ってくる競馬新聞を盗み見し、重賞レースに出走があるかを確かめるのがいつしか習慣になっていた。そんな地道なことを繰り返し出走があるたびに応援していたわけだが、残念ながらずっとずっと負け続けていったのである。
同じ地方出身馬のオグリキャップとイナリワンは活躍を続けていく中、ドクタースパートなど忘れられた存在になりつつあった。
毎回応援しつつももう勝てないまま引退するであろうと子供ながらに思っていたと思う。
しかし、競馬とはわからないもので5歳のステイヤーズSでいきなりレコード勝ちで復活したのだ。この勝利を知ったときの感動と喜びはたいへん大きなものであった。
大人になり馬券を買うようになってからは応援している馬=馬券に繋がり、このときのような純粋な気持ちは徐々に薄れてきている。だけど、もしかしたらまたこのような感動と出逢えるかもしれないと競馬を見続けているのかもしれない。
忘れられない思い出の1頭をあげろといったら私はドクタースパートをあげる。
スタンドオンエンド
アスコット
知名度もさほど無いような馬。札幌競馬場でイベントがありました。最終レースの口取りにプレゼンターとして参加できる権利。2001年8月26日の最終レースの勝ち馬がスタンドオンエンドでした。札幌の8月にしては暑い日でした。
イベントに当選しましたが半ズボン着用だった為にウィナーズサークルには立ち入り出来ないといわれて、代わりに女房と子供を参加させました。四位ジョッキーに抱き上げられた子供の写真は、いまでも保管してあります。
そのレースは1000万下条件戦でしたが、2戦挟んだ2001年11月3日(1000万下)、11月25日(1600万下)、12月8日(摩耶S・OP)と3連勝しました。
ダートで見せたその強さは決してOP1勝で終わるようなものではなかったと思います。
いまでもJSEには当時の応援メッセージが残っています。
1線級を相手に見せた走りを自分の手で再現できたらと思い、応募いたします。
ミスターシービー
ロンシャン
私が競馬に興味を持ち始めてから少したった頃、競馬好きな父親がひとつのビデオを持ってきました。そこには「ミスターシービー」というシールが貼られていました。
このビデオを見るまではミスターシービーと言われればルドルフより弱い3冠馬という程度の認識でした。実際にミスターシービーのレースを見たことが無かったので戦績だけでみるとそういうイメージでした。このビデオの中には、ミスターシービーが出走したレースの中でテレビで放送された物が全て録画されてましたその中でもやはり印象に残ったのは3冠のかかった菊花賞でした。『ゆっくり上がって、ゆっくり下る』のがセオリーの京都の坂の上りでスパートし後続を次々に交わし4コーナーでは先頭、そのまま脚色は衰えることなく2着に3馬身の差をつけてそのままゴールへ。凄すぎる…。ただそれだけでした。「ありえない」そんな勝ち方でした。見終わった後、なぜ父親がそして競馬ファンがこの馬を好きになったのかすぐわかりました。それと同時にこの馬をリアルタイムで見れなかったことが非常に残念で仕方ありませんでした。これがきっかけで私は更に競馬の魅力にハマっていきました。
私に競馬の魅力を教えてくれたミスターシービーを競馬伝説で蘇らせていただきたい。
ファインモーション
アスコット
当時、競馬をはじめて間もないころ・・・。
今日は良血の馬がいるんだな、程度にしか思って居なかった2002年の札幌競馬場。
パドックで見たのはタテガミを編みこんだ可愛い顔の牝馬。横山騎乗で2600mを鞭も入れずに1着でゴールしてきました。3コーナーからは、スタンドの観衆からの大きなどよめき。
これが、ファインモーションの実力なのか・・・。札幌で走った3走は記念馬券を必ず購入していました。クイーンSははずれ馬券になってしまいましたが(苦笑)
芸術の様な走りはいまも深く印象に残っています。
トウカイテイオー
チャーチル
私は競走馬の産地と言われるところで育ちました。
馬はほぼ毎日見ていましたが、当時は都会のへの憧れもあり見渡す限りの牧場風景を前に「どうしてこんな田舎に生まれたんだろう」と故郷を好きになれずにいたものです。
でもそのような想いを初めて消してくれたのがトウカイテイオーという馬でした。
骨折を何度も繰り返しましたが、その度に鮮やかに復活する姿には、決して   感動だけではなく、あきらめてはいけないこと、立ち上がれること、いろいろなことを教えてくれたような気がします。今でも最後のレースになった有馬記念を一人で見ることがあります。
1着で駆け抜けるその姿を見るたび、トウカイテイオーが産まれた地方で自分も産まれた事を誇りに思うことが出来るから。
メジロデュレン
ロンシャン
メジロマックイーンの半兄といえばピンとくる競馬ファンも少しはいると思います。
GI菊花賞と有馬記念を勝ったにも拘らず度重なる不運に見舞われ正当な評価がされてない1頭だと思いますす。菊花賞を制覇しときは、同じ世代に初の牝馬三冠をしたメジロラモーヌの影に隠れ、有馬記念を勝ったときは1番人気のダービー馬メリーナイスが落馬、そして2冠馬サクラスターオーの悲劇のレースとなったこともあり、勝ったメジロデュレンは霞んでしまっています。
種牡馬になってからも超マイナーな長距離血統ということでスピード競馬時代にはあわずあっという間に引退してしまいました。優勝劣敗の世界であり、もう血脈は途絶えるのは仕方がないことだと思いますが、メジロマックイーンの半兄ではなく、メジロデュレンそのものとしての評価を受けることを願うばかりです。