当時中学生で競馬の事は良く判りませんでした。同級生で競馬(お金賭ける事では無く馬が走る姿)が好きだという友人が居て競馬新聞を持って来ました。 初めて見る競馬新聞を物珍しく見ながら、このダイアナソロンという牝馬の名がとても気に入り、このレースはこの馬しかないと決めました。勿論馬券は買っていませんが(笑)桜花賞でしたが見事1着になり鳥肌が立った記憶があります。 それから引退までこのダイアナソ\ロンを応援し続けました。いま思えば私の競馬はダイアナソロンから始まったと言えます。競馬をする限り(又は見る限り)ダイアナソロンの事は一生覚えているでしょうね。
私が心揺れ動かされた馬、それがライスシャワーです。 どんなに不調の時でも、どんなペースでも好位でレースをしてきたのに、あのレースは何かがおかしかった。 何も競馬を知らなかった私が初めて好きになった馬。必死で応援していた馬。それなのに、ライスは何処か遠いところへ行ってしまいました。無敵に強かったというわけではない。有名な母の息子だったわけではない。特別ハンサムホースだったわけではない。以前からファンだったジョッキーが乗っていたわけではない。ここが魅力、これが良い、だから好きなのではない。 きっとその馬がライスシャワーという馬だから、だから好きなのだろう。 淀に咲き 淀に散った最強・最後のステイヤー、またライスのような馬に出会えればと思います。
まだ沢山の方の記憶に残っていると思いますが、敢えてトウカイテイオーを挙げたいと思います。 当時、私は結婚2年目でやっと妻が妊娠し待望の子供を授かるという事で毎日を楽しく過ごしていました。ところが、ある日突然切迫流産。二人で落ち込んでいる時にこのトウカイテイオーの復活劇に逢いました。今でもアナウンサーが「トウカイテイオー!トウカイテイオーがやってきた!」が忘れられません。 一時は痩せ細ってそのまま死んでしまうんじゃないかと思われたトウカイテイオーが復活した有馬記念。田原成貴騎手の涙も印象的でした。それに力付けられたというと大袈裟かも知れませんが、私達もそれから気を取り直し今は2児に恵まれ平和に暮らしております。あの時、トウカイテイオーがやれば出来るんだという事を見せてくれたことは決して忘れられません。復活に賭けた牧場関係者、厩舎関係者の苦労も並大抵では無かったでしょう。 それに見事応えたトウカイテイオーは本当に名馬だと思います。
皐月賞2着、ダービー1着、一流馬たる成績。それなのにこの馬は「史上最弱のダービー馬」として語られることが納得できなかった。 確かにその後32連敗、飛越がうまいということで、障害レースに出る予定が、ダービー馬だから反対され実現されなかったと聞いています。
デビュー後から次元の違う強さを見せつけてたグラスワンダー。 しかし怪我に悩まされていた。 1999年の第44回有馬記念。引退レースとなるスペシャルウィークとの一騎打ち。結果は写真判定で、的場騎手も尾形調教師も負けたと言っていた。しかしわずか4cmの差で勝利。そのときの尾形調教師の言葉で目が覚めました。 『こけてもこけても立ち上がってくる、人生そのもの。』 諦めない気持ちの大切さを感じました。
一度も休養もなく淡々と走り続けた、名牝。 最後のRとなった、有馬記念では、ラストの直線で骨折、競争中止になってしまいました。 その後、奇跡的に怪我を克服・・でも、ターフには戻って来られず・・ 満身創痍、波瀾万丈の本当に素晴らしい・・名牝でした。 あの、札幌記念は圧巻でした。
馬の美しさと強さを持ち合わせた馬だった。強さ、そして誇り。しかし、ダイヤの原石だって磨かねば光ることはできない。彼が追い求めたのは磨き上げた自分の姿だったのか。それとも自分に携わった人たちへの・・・・ みなさま、お久しぶりです、私的名馬列伝6回目は近年最強マイラータイキシャトル。海外G1制覇が光る馬ですが、厩舎や関係者の努力などこれだけ強い馬でも苦労が絶えないのだと、実感させられた馬でもあります。 タイキシャトルはケンタッキーファームで生まれ、アイルランドに移りその後日本の藤沢厩舎に移された。血統的に見ると日本で大成功を収めているヘイロー系。そして、日本のトップトレーナー藤沢厩舎、馬主さんは大樹ファーム。折り紙つきのお坊ちゃんである。しかし、デビューから順風満帆というわけではなく、ゲート試験で再三落ち、デビューが遅くなったという経緯も持っている。○外のマイラーとなればNHK参るカップを目指すのが至極当たり前のようだが、この馬それができなかった。しかしそれが「馬に無理をさせない」という藤沢厩舎らしいところでもある。デビュー後はすんなりと3連勝。4戦目の菩提樹ステークスでは二着に敗れるがそのとき勝ったのは、テンザンストームという牝馬。「女の子追っかけて負けたんじゃ・・・」と突っ込みたくなるような一戦だった。しかし、周りがこんな冗談を言っていられるのはここまでだった。 次にダートの1600Mユニコーンステークスを快勝、さらにスワンステークスも返す刀で勝つと、二番人気でG1マイルCSへ駒を進めた。この年は安田記念馬タイキブリザードが不在で混戦模様となり、事実一番人気は武豊騎手鞍上のスピード ワールドであった。レースはキョウエイマーチが引っ張る展開。速い流れのまま直線へ。初めてのG1にもかかわらず、タイキシャトルはいつもどおり好位から、あっさり抜け出して見せた。あまりにあっさり抜け出したため、逃げていたてキョウエイマーチを交わし直線に入ったところで実況は「キョウエイマーチ脚が上がったか」と洩らしている。しかし、キョウエイマーチは二着に粘りこみ非常に強い競馬をした。ただ、相手が悪かったとしか言いようがない。事実そのあとスプリンターズステークスで岡部騎手を鞍上にもどし、同じように好意を追走。そしてあっさり抜け出す。好スタートから、無理なく好位を進み、直線で前に並び、前の馬と馬体を合わせ、坂上でもう一伸びして勝つ。近代競馬のお手本のような勝ち方。それは精密な機械、いや走る芸術品のようなもので大きな栗毛をなびかせ走るその姿とともに、チャンピオンとしての誇りも垣間見せてくれた。 年明け。1200Mになった高松宮記念をパスして京王灰SCに出走したタイキシャトルはまたも危なげない走りを見せてくれた。そして、陣営が海外遠征をぶちあけた安田記念。初めての不良馬場。タイキシャトルはいつもより道中やや後ろを走った。そして直線。坂を上ったところから瞬く間に差を縮めると最後はまたしても、圧勝。 その後、日本最強の金看板を背に、タイキシャトルはフランスへと赴く。フランスでも格調高いとされる、ジャックルマロワ賞への出走が決まっていたからだ。それは国際派で知られる岡部騎手の長年の夢でもあっただろう。 ちなみにレース前の雑談で横山騎手が「岡部さんがのれなかったら俺が乗る」と冗談を言うと、横にいた武騎手が「じゃ、ノリさん(横山騎手)がのれなくなったら僕に乗せてください」とかぶせるととどめはペリエ騎手「ユタカが乗れなくなったら俺が乗るよ」なんて会話があったらしい。さてそんな逸話をよそにタイキシャトルはこのレースでも日本と同じ好位を追走。前の馬と並び、最後もう一伸びして勝利をもぎ取った。日本と同じ勝ち方。しかし、芝だけでなく環境そのものがまったく違う異国の地で、「同じように走る」ことが如何に難しいか 競馬を少しでもかじったものならわかるだろう。しかし彼はここでも強く、そして美しかった。 その後国内2戦で引退の決まっていたタイキシャトルは連覇をかけたマイルCSで、寒気のするくらいの強さを見せてくれる。いつもどおり好位につけ、直線でももったまま、岡部騎手が追い出すとそのままスッとほかの馬を突き放す。「切れる」とか「早い」とかそんな表\現は間違っている。「美しく、そして強い」それは「強さ」とはなにかそれを教えられたような走りだった。その美しさは、ただ単に大きな栗毛の馬体というだけでなく、デビューまで苦労をかけた「原石」がもっとも光り輝いていた、「美しさ」でもあり、彼の集大成でもあった。 そして、それは鞍上が岡部騎手ということもあいまって、ある一頭の名馬を思い出させてくれた。シンボリルドルフ。競馬史上最多の7つのG1を勝ち、史上最強の呼び声も高い馬である。岡部騎手がデビューから手綱を取り、そのレースは好意追走から、直線すっと抜け出すというもの。どの馬も、この勝ち方がロスもなくリスクも少ないはずである。しかしながら、こういった競馬ができる馬は稀である。気性はもちろんスタートセンスや馬の癖など、すべてを兼ね備えた馬じゃないとこうはならないのである。 話をタイキシャトルに戻そう。ではタイキシャトルは兼ねそなえていたのか?答えはYESでもありNOでもある。冒頭で触れたようにゲート再審査にもなった馬である。結果としてこういう競馬ができるようになったのは、携わってきたすべての人が、この「原石」をすこしずつ磨いていったからではないか。 ラストランでタイキシャトルは負ける。いつもどおり直線までは好位。 そこから馬体をあわせる。最後手前を変えなかったことが敗北の原因なのだが、それは決して今までの誇りを無にするものではなく、最後まで美しいものであった。 今タイキシャトルは種馬として余生を送っている。すでにG1ウイナーも送り出し、一流の種馬になっている。しかし、あれだけの馬が再び現れるだろうか? ただ強いだけでなく、美しく、誇り高き馬が。実際には難しいと思う。
秋華賞で骨折し、骨折休養明けにも関わらずマーメードSを快勝し、牡馬相手となった札幌記念も圧勝。迎えた天皇賞ではバブルガムフェローとの直線の叩きあいを制止て優勝。この天皇賞でのエアグルーヴの強さに衝撃を覚えましたが、続くJC、有馬でも好走し最強牝馬とも思える活躍。さらには産駒もGを勝利し、母としても優秀な仔をターフに送り出している素晴らしい牝馬。
初めて見た印象は「この馬走る気あるのか?」朝日杯のパドックでした。 結果はあのレコード勝利。その後、骨折で4歳の春は休養。 復帰後の毎日王冠、アルゼンチン共和国杯はまさかの惨敗。この時のパドックは何かが違った。変と言うより普通の馬だった。そしてあの有馬記念。 パドックを見て、「あれっ、朝日杯の時と一緒だ。」ひょっとしてと単勝で勝負。 結果、メジロブライトを半馬身おさえて復活勝利を果たした。 テレビの前で叫んだのは、この時が初めてでした。 その後、グランプリ4連覇に挑んだ宝塚記念での故障により引退したが、残念なのは、エルコンドルパサーとベストの状態で戦えなかったことか。 2頭の走るNHKマイルCが見たかった。
小学生の頃、初めて競馬をTVで見たのが93年の有馬記念だった。 父親がテイオーを応援していたので意味もわからず自分も応援していた。 そしてあの「奇跡の復活」を見る事となる。その後、競馬に興味を持ち、競馬にのめり込んでいくと共に、テイオーの「強さ」「悲運」そして「奇跡」を思い知りどんどん惹かれていった。 自分が競馬に興味を持ったのはテイオーのお陰であり、自分にとってテイオーはいつまでも最高の名馬です。
『みどりのマキバオー』がテレビ放映されはじめ徐々に実際の競馬に興味を持ち始めた頃、古馬路線はサクラローレル、マーベラスサンデー、そしてマヤノトップガンと、3頭が激しい頂上争いをしていた時期でした。 サクラ、マーベラスにやや押され気味なトップガン。『もうダメなのかな…』と感じていたのは、自分だけではなかったはず。ところが、あの天皇賞・春。最後の直線、サクラとマーベラスが激しく競り合うその横を、豪快に抜き去った栗毛の馬体。菊花賞を制した淀の長距離の舞台で、トップガンがもう一度光り輝いた瞬間でした。産駒の成績では一歩リード。ブライアンズタイムの血の後継者になっていってほしいものです。